明智光秀が謀反を起こし織田信長が自害した『本能寺の変』は、日本の歴史の中でも最も有名な事件の一つです。
一方で、本能寺の変の後、明智家や光秀自身がどのような運命を辿ったのかをご存じない方も多いのではないでしょうか。
この記事では、
- 明智光秀は本能寺の変の後どうなったの?
- 明智家自体はどうなったの?
- 光秀の家臣たちはどうなったの?
などを初心者の方に向けて、本能寺の変の後、明智家や光秀自身がどうなったのかを中心にお伝えしていきます。
本能寺の変の後の光秀
本能寺の変で織田信長と、その息子の信忠を討った明智光秀。たくさんの領地を手中に収めていた信長が亡くなったことで、情勢が一変します。
いずれにしても光秀が裏切り者であることには変わらないので、織田家臣たちによる弔い合戦に備えねばなりません。
光秀は旧知の仲であった『細川藤孝(幽斎)』や『筒井順慶』らが味方に付いてくれると踏んでいましたが、その当ては外れ、彼らの味方は得られませんでした。
このような状況の中、中国地方で毛利家と対峙いていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、毛利と和議を結び、京都に向かって引き返してきました。秀吉の行軍の迅速さは、今なお語り継がれており『中国大返し(おちゅうごくおおがえし)』と呼ばれています。
こうして、期待していた援軍を得られぬまま光秀は秀吉との戦いに突入していくことになったのです。
そして、本能寺の変から11日後の天正10年(1582年)6月13日、明智軍と羽柴軍が激突します。この戦いを『山崎の戦い』と言います。兵数には諸説あるものの、羽柴軍約4万に対し、明智軍は1万数千人だったとされています。
兵数で勝る羽柴軍は明智軍を圧倒、光秀は敗走を余儀なくされました。そして逃亡中の山中にて、落ち武者狩りに襲われ深手を負い自害したとも、討ち取られたとも言われています。
明智光秀生存説
悲劇的な最期を遂げた人物には必ずと言っていいほど生存説が囁かれますが、光秀も例外ではありません。
その中でも最も有名なのが『天海説』です。南光坊天海(なんこうぼう てんかい)という徳川家の外交僧になって、本能寺の変~山崎の戦い後も生き延びていたと言う説ですね。
一件とんでもない説に思えますが、案外そうかもしれないと感じる点が多くて面白い説です。天海説の詳細は以下のリンクから確認できます。
あるいは、山崎の戦い後も生きていて、関ケ原の戦いにも参陣していたという説まであります。
本能寺の変後の明智一族や主要家臣たち
明智たま(玉、後の細川ガラシャ)
玉は『謀反人の娘』という不名誉なレッテルを貼られてしまい、夫の忠興は、自領の山奥に玉を幽閉してしまいます。
玉は光秀の実の娘ですから、見せしめのためとか、世間体を気にしたとかいろいろな理由があったと思われますが、見方によっては玉の身を守るためとも考えられ、ある意味、忠興の愛が感じられると言えなくもありませんね。
ちなみに、玉は謀反を起こした光秀に対し、このような言葉を残しています。
父上の腹黒い心のせいで、私は夫に捨てられてしまいました・・・。
結局、玉は2年も幽閉され、ようやく秀吉に許され忠興との復縁が許されました。
さらにその後、キリスト教に入信し『ガラシャ』となった玉が迎える壮絶な最期などの詳細版は、以下のリンクからご覧いただけます。
明智左馬之助(明智秀満)
左馬之助は、山崎の戦いには参戦しませんでした。では何をしていたのかと言うと、本能寺の変の後、明智軍が安土城を奪取したため、安土城に入って守備を担当していたのです。
その最中で、光秀の敗北の報に接しました。
光秀が敗れたことを知った左馬之助は、軍勢を率いて出陣し、光秀の居城で阿多坂本城に移動しました。この時に、安土城を出た左馬之助が、馬に乗ったまま琵琶湖を渡り、坂本城に辿り着いたという伝説があります。
これが『明智左馬助の湖水渡り』という伝説です。
坂本城に入城した左馬之助は、攻め寄せる秀吉軍を相手に大奮戦しました。しかし、兵力差が著しく敗北を悟った秀満は、ともに覚悟を決めた妻子や一族を殺害した後、自らも自害して果てたのでした。
この時に亡くなった左馬之助の妻は、光秀の実の娘の一人でした。
なお、明智左馬之助の最期に関する詳細版は以下のリンクから確認できます。
斎藤利三
斎藤利三は山崎の戦いにも参戦し、軍を率いて奮戦しました。しかし、多勢に無勢で敗北。利三も敗走しましたが、逃げ切れず捕縛されてしまいました。
それから程なくして、京都の六条河原で処刑されました。
藤田伝吾(伝五)
藤田伝五は、本能寺の変の後、筒井順慶を味方にするため奔走しています。しかし、その願いは叶わず山崎の戦いに突入しました。
伝五は明智軍の部隊を指揮し、6カ所の傷を負いつつも大奮戦しました。しかし、明智軍は敗北し、伝五は敗走。光秀が敗走時に帰城していた勝龍寺城が落城したことを知り、もはやこれまでと自刃して果てました。
なお、藤田伝五の最期に関する詳細版は以下のリンクから確認できます。
現在の明智家
続いて『光秀の直系は誰も残らなかったのか?』に関してです。
光秀の子供の数が明確ではなく、特に男子に限って言えば、存在が確実視されているのが長男の『光慶(みつよし)』のみとされています。
さらには前述の通り、明智左馬之助が坂本城で自害した際、その妻子や一族も亡くなっており、この際に光慶も自害したと言われています。なので、光秀に繋がりのある明智一族はほとんど残らなかったと言われいます。
しかし、明智玉(ガラシャ)と細川忠興には子供がおり、そのご子孫が現在まで続いているので、細川家として光秀の血は今も引き継がれています。
玉のご子孫の方は著書も出されています。
また、光秀の子供に『於隺丸(おづるまる)』という人物がいたとされ、そのご子孫も健在です。ただし於隺丸(おづるまる)の存在は疑問視する声があるのも事実です。
いずれにせよ、光秀の子供の数がハッキリわかっていませんし、一説には側室がいたとも言われており、光秀の直系が今も続いていたとしても不思議はないのかもしれませんね。
ちなみに、坂本龍馬が明智家の末裔だったという説もあります。
明智光秀のその後まとめ
以上、本能寺の変後の明智光秀や明智家でした。
明智光秀の最期に関しては、山崎の戦いで敗走した後に、落ち武者狩りに襲われなくなったとするのが一般的です。また、細川家では玉の血を引くご子孫もご健在で、諸説あるものの光秀の直系を名乗る方もいらっしゃいます。
そして、これらの他にも光秀生存説や坂本龍馬が末裔説など、本能寺の変後の明智光秀に関しては、様々な説が存在しています。本能寺の変自体が『日本史最大級のミステリー』と言われるように、その首謀者とされる光秀のその後にも、様々な尾ひれが付いて今に伝わっています。
ぜひ、様々な説に触れて歴史ミステリーを楽しんで頂ければと想います。