浅井長政の主要家臣団一覧と戦国一の美女お市の顔を3D 復元

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戦国大名の家臣団

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

信長と同盟するものの、旧知の仲である朝倉家に味方し滅亡した浅井家。

そんな浅井家で最も有名なのが『浅井長政』です。

 

この記事では、浅井長政の主要家臣団をご紹介するとともに、長政の正妻である『お市』の復元記事に関してもご案内いたします。

 

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浅井長政と家臣たち

浅井長政の一門衆

浅井長政 あざい ながまさ(1545~1573)

織田信長の妹で、戦国No.1美女と言われる『お市の方』を妻に迎えた北近江の戦国大名。

長政とお市の娘『茶々』『お初』『お江』の三姉妹はとても有名です。

 

始めは、近江に勢力を誇っていた六角氏に臣従していましたが、長政が浅井家当主となった途端、六角氏と対立。

その後、六角氏を破り戦国大名として独立を果たしました。

 

やがて、お市との婚姻政策によって織田信長と同盟を結び、浅井家はますます発展しました。

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しかし、朝倉家と織田家が対立。

朝倉家とは以前から親密な関係だった浅井家は、織田家と敵対することになります。

この時の長政の判断を『時世の読めない暗愚な武将』という人がいますが、そんなのは結果ありきでしか歴史を見ていない後世の戯言です。

 

浅井・朝倉連合軍は『姉川の戦い』で織田と激突しますが敗北。

その後も織田との対立は続き、信長と不仲になっていた将軍『足利義昭』に呼応し、『武田信玄』、『本願寺顕如』、『松永久秀』ら大物とともに信長包囲網を結成。

しかし、武田信玄の急逝によって、包囲網は瓦解。

 

信長の勢いに押されていった浅井家は、居城の小谷城(おだにじょう)を包囲されました。

覚悟を決めた長政は、最愛の妻 お市と、娘の三姉妹を城から脱出させた後に自刃。

浅井家は滅びました。

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長政の正妻 お市の方(1547~1583)

家臣ではありませんが、織田信長の妹で長政の正室『お市の方』の顔を復元した記事がありますので、興味のある方はご覧になってみてください。

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浅井輝政 あざい てるまさ(1564~1573)

『浅井万福丸』の名で知られる長政の嫡男。

実像がハッキリしない人物で、一説によると、お市が嫁ぐ前に生まれていたそうで、生母は不明。

幼いころは、朝倉家の人質になっていたとも。

 

浅井家滅亡に際し、囚われの身となり処刑されたと言われています。

 

浅井長政の家臣団

海北綱親 かいほう つなちか(1510~1573)【浅井三将】

長政の祖父『亮政(すけまさ)』、父『久政』、そして長政の三大に仕えた重臣。

赤尾清綱、雨森清貞と並び『浅井三将』に数えられた武将。

浅井家が織田信長と敵対して以降、羽柴秀吉とも戦い、その実力を賞賛されました。

 

小谷城が落城した際に、討ち死にしたとと伝わっています。

 

なお、息子の一人(五男)が、海北友松(かほう ゆうしょう)という画家。

この時代の画家を代表する、狩野永徳(かのう えいとく)や長谷川等伯(はせがわ とうはく)らと並ぶ人物です。

 

赤尾清綱 あかお きよつな(1514~1573)【浅井三将】

長政の祖父『亮政(すけまさ)』、父『久政』、そして長政の三大に仕えた重臣。

海北綱親、雨森清貞と並び『浅井三将』に数えられた武将。

 

浅井家代々当主からの信任熱く、小谷城の中には『赤尾曲輪』なる、清綱の住まいもありました。

浅井家滅亡時に討ち死にしたとも、処刑されたとも言われています。

 

雨森清貞 あめのもり きよさだ(??~??)【浅井三将】

海北綱親、赤尾清綱と並び『浅井三将』に数えられた武将。

 

久政の代から浅井家い仕え、主要な合戦でも活躍していたようですが、生没年なども含め、詳しい事績や人物像も分かっていません。

 

磯野員昌 いその かずまさ(??~1578?)

浅井家を代表する猛将。

 

姉川の戦いでは、信長の本陣を目指し突撃。

13段構えだった織田軍の陣中の11段までを崩す、大活躍を見せたという伝説があります。

柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興など、織田家を代表する武将を次々と蹴散らしていったこの伝説は『員昌の姉川十一段崩し』と呼ばれています。

 

浅井家滅亡後は織田家に仕えますが、信長の怒りを買い追放されたと言われています。

 

遠藤直経 えんどう なおつね(1531~1570)

長政の傅役(もりやく 養育係のこと)を務めた人物。

長政からの信頼も、非常に厚かったと言われています。

 

姉川の戦いで、竹中半兵衛の弟(竹中重矩)と激突し、討死しました。

 

阿閉貞征 あつじ さだゆき(1528?~1582)

浅井長政の家臣として姉川の戦いなどでも活躍しましたが、小谷城が落城時に織田信長に寝返った武将。

 

織田家の家臣として活躍しますが、本能寺の変で信長が討たれると明智光秀に味方しました。

その後、羽柴秀吉に光秀が破れ、一族もろとも追討されました。

 

宮部継潤 みやべ けいじゅん(1528?~1599)

もともとは比叡山の僧侶でしたが、のちに長政の家臣となった人物。

 

浅井家と織田家の溝が深まると、羽柴秀吉の調略に応じ寝返り。

その後も秀吉家臣として活躍し、九州征伐では猛将 島津家久を破るなどの活躍を見せました。

 

渡辺了 わたなべ さとる(1562~1640)

阿閉貞征に仕えた武将。

武勇に優れ『槍の勘兵衛』と称されました。

 

後に信長の四男で秀吉の養子となった『秀勝』に仕え、賤ケ岳の戦いなどでも活躍。

関ケ原の戦いでは西軍に味方し、居城の大和郡山城を守備しました。

 

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まとめ

あまり有名な人物がいませんでしたが、以上が浅井長政の主要家臣団一覧です。

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。