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拓麻呂です。
戦国時代後期の武将『山内一豊』。
大河ドラマの主役になったこともある山内一豊ですが、目立った軍功がほとんどありません。
そんな一豊は、なぜ大河ドラマに取り上げられるような人物になったのでしょうか?
その裏には、奥さんの活躍と、関ヶ原の戦い直前の英断があったのです。
山内一豊と千代
千代の内助の功
一豊の出世街道を支えた正妻を『見性院(けんしょういん)』といいます。
一般的には『千代(ちよ)』の名で知られています。
千代が一豊を助けた内助の功に関しては主に2つのエピソードが残っています。
内助の功① 千代のヘソクリ
織田信長が主催する『馬揃え』に一豊が参加することになりました。
『馬揃え』とは、自分が所有する馬に乗って武威を示す軍事パレードのようなものです。
信長主催の大事な馬揃えとなれば、中途半端な馬で参加すれば恥をかくことになります。
そこで一豊は立派な馬に乗って参加しようと考えたのですが、残念ながら馬を飼うお金がありませんでした。
そんな時、千代が気転を利かせます。
千代が一豊に嫁ぐ際、父から渡されていた化粧料。
化粧料とは、女性が嫁ぐ際に実家から渡されるお金のことです。
千代は一豊に嫁いで以降、その化粧料を使わずにいました。
いわば、千代のヘソクリです。
千代のヘソクリで立派な馬を購入し、一豊は恥をかかずにすみました。
さらには、馬が立派であったことが信長の目に留まり、山内一豊という男を織田信長が認識するキッカケにもなったのでした。
内助の功② 千代の秘密の手紙
関ヶ原の戦いの直前。
一豊は徳川家康に従い、上杉氏の討伐に従軍していました。
そんな中、大坂にいた千代の元に、石田三成方から手紙が届きます。
手紙の内容は『山内家は石田三成に味方せよ』と書かれており、その手紙を一豊に届けるよう要請してきました。
千代は要請に従い、使者に手紙を持たせ一豊の元に向かわせました。
しかし、この時の使者は三成の手紙とは別に、もう2通手紙を持っていました。
一通の手紙は箱に入れ、もう一通の手紙はコヨリ状にして使者の笠の緒に忍ばせました。
コヨリ状にした手紙には『箱に入れた手紙を開封せず家康に渡す』よう書かれていました。
一豊はコヨリ状の手紙の通り、箱を開けずに家康に渡しました。
箱に入った手紙には、大坂の状況を知らせるとともに、家康に忠義を尽くし三成には味方しない旨が書かれていました。
千代の狙い通り、箱を開けずに手紙を渡したことで家康を忠節を示す証となり、一豊は家康に認めらる存在となりました。
掛川城を明け渡す
その後、家康は大阪で石田三成が挙兵したことを知ります。
そのまま上杉討伐に向かうべきか、引き返して三成と雌雄を決するべきか?
家康に従軍していた諸将に意見を求めました。
これが世に名高い『小山評定』です。
この時、家康に従軍していた武将は福島正則などの秀吉に恩義のある武将たちばかりでした。
もちろん、一豊もその一人です。
三成が挙兵したとなれば、やっぱり豊臣方に味方するという武将が出てきてもおかしくありません。
ですが、大坂に引き返すためには東海道を下る必要があります。
東海道の諸城が家康陣営となれば、安全に引き返すことができ、三成との決戦に臨めます。
そして東海道には、一豊の居城である『掛川城』がありました。
ここで、一豊が一世一代の大英断を下します。
なんと、一豊は掛川城を無条件で家康に引き渡すと言い、家康への忠義を示しました。
この一豊の決断により、小山評定に参加していた武将たちも一斉に城を明け渡すことを誓い、三成との決戦に挑むことが決まりました。
この英断により、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐に20万石という領地を得て、山内家は幕末まで土佐を治めることとなるのです。
夫婦二人三脚で勝ち取った土佐20万石
このように、一豊は千代の気転に助けられながら戦国の荒波を乗り切り、最後は自らの英断により、土佐20万石を勝ち取りました。
この当時は『家』というものが非常に重要視されていた時代です。
自分の血筋を残し、家を繁栄させることが何より大事でした。
『内助の功』と言うと、なんとなく『夫を支えた妻』といったイメージですが、実際は『夫婦一緒に家を繁栄させる』という方が、当時の価値観に合っていると思います。
千代にしても、一豊を助けたと言うよりは、山内家を繁栄させるめに尽力していたと言った方が良いかもしれません。
ドラマなどを見ると、戦国時代の女性は乱世に翻弄された可哀そうな存在として描かれることが多いです。
ですが、その描写は現在の価値観に当てはめたもので、当時の価値観とは必ずしも一致しません。
乱世なのでどうしても男性の活躍ばかりが注目されますが、戦国時代の女性はとても強い存在でした。
秀吉の正妻『ねね』などは良い例ですが、嫁ぎ先の家での発言力は当主の男性にも勝るとも劣らないものでした。
また、本多忠勝の娘で真田信之に嫁いだ『小松姫』、映画のぼうの城にも登場した『甲斐姫』などは、女傑として知られ夫以上に勇ましい一面が知られています。
政略結婚が当たり前で結婚の自由はほとんど無い時代でしたが、家を守り栄えさせるのは、決して男性手動ではありませんでした。
あくまで夫婦二人三脚で家を盛り立てることが戦国時代の夫婦の在り方でした。
もちろん、一豊と千代も同じです。
確かに一豊は、千代の気転に助けられた側面が大きいです。
僕は、『千代の内助の功で一豊が出世した』というのは、適した言い方ではないと思っています。
その言い方は、千代の活躍を軽く見ているような気がします。
『千代と一豊が共に山内家を盛り立てた結果、一豊が出世し山内家が繁栄した』と言うのが、戦国時代の真実なのではないでしょうか。
まとめ
以上、山内一豊はなぜ出世できたのか?でした。
千代の気転、小山評定での一豊の英断。
夫婦ともに邁進していったからこそ、山内家は戦国時代を生き残ることができました。
なんというか、多くの媒体で現在の価値観を当てはめ、当時の女性を『時代に翻弄された悲劇の存在』とする風潮に少し疑問を感じています。
女性の活躍を見せるのであれば、当時の価値観で、当時の強かった女性を描く方が、よっぽど女性の活躍が伝わってくるのでは?と僕は思っています。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。