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拓麻呂です。
藤田行政という戦国武将をご存じでしょうか?
通称『伝五』『伝吾』、または『伝五郎』。
『藤田伝五』と呼ばれるのが、最も一般的かもしれません。
藤田伝五は、あの明智光秀の家臣。
かなりマニアックな人物ながら、2020年NHK大河ドラマにも登場が決定している人物です。
(ドラマでは『伝吾』と表記)
知名度がほとんど無く、その事績や人物像も不鮮明な謎の武将『藤田伝五』とは一体どのような人物だったのでしょうか?
また、その最期はどのようなものだったのでしょうか?
明智五宿老の一人『藤田行政』
藤田伝五の基本情報
まずは藤田伝五のプロフィールをお伝えします。
【本名】藤田行政(ふじた ゆきまさ)
【通称】伝五(でんご)、伝五郎(でんごろう)
【生年】不詳
【没年】天正10年(1582年)
【享年】不詳
【出身地】美濃国(現在の岐阜県南部)と伝わる
【兄弟】藤田行久
【子供】藤田秀行
明智光秀の重臣『明智五宿老』
藤田伝五は、光秀の重臣『明智五宿老』の一人でした。
明智五宿老のメンバーを以下の通りです。
明智秀満(あけち ひでみつ)
明智光忠(あけち みつただ)
斎藤利三(さいとう としみつ)
溝尾茂朝(みぞお しげとも)
そして伝五こと、藤田行政(ふじた ゆきまさ)
光秀が本能寺の変を決意した時、五宿老はその気持ちを最初に打ち明けられたと言われています。
伝五を含む五宿老に対する光秀の信頼が、とても大きなものだったことが分かります。
本能寺の変での動き
誰より先に本能寺を攻める意思を告げられた明智五宿老。
そのうちの一人であった伝五は、本能寺の変ではどのような活躍をみせたのでしょうか?
伝五は同じく五宿老の明智光忠、溝尾茂朝とともに明智軍の第二陣として兵4000人を率いて本能寺を襲撃しました。
伝五らの活躍もあり、織田信長は自害。
信長を討つという大目的は達成されました。
さらに伝五は、本能寺の変後も重要な役割を担っていました。
信長の弔い合戦を挑むべく、中国地方から怒涛の勢いで引き返してきた羽柴秀吉。
秀吉との決戦に挑む光秀は、昵懇の間柄であった武将たちを味方に引き入れるべく交渉を開始します。
その内の一人が『筒井順慶』という大和(現在の奈良県)の戦国武将。
この筒井順慶を味方に引き入れるべく交渉にあたったのが藤田伝五でした。
光秀としては、当初から順慶の戦力をあてにしており、彼の軍勢が味方につくかどうかは、秀吉を迎え撃つにあたって非常に重要な案件でした。
しかし、順慶はどちらに味方するでもなく日和見を決め込んでしまい、交渉は失敗。
その他、細川幽斎ら頼りにしていた武将はことごとく光秀に味方せず、圧倒的い不利な状況のまま秀吉との決戦、世に言う山崎の戦いへと突入していきました。
伝五は明智軍の右翼を担い全身に、6カ所の傷を負いつつも大奮戦。
しかし、戦力的にも不利だった明智軍は敗北し、光秀や伝五は敗走。
光秀が敗走時に帰城していた勝龍寺城が落城したことを知り、もはやこれまでと伝五は自刃。
一方の光秀は、勝龍寺城を脱出して本拠の坂本城へ逃走している最中、小栗栖(おぐるす)という場所で落ち武者狩りに襲われ負傷。
伝五の自害から程なくして、小栗栖の山中で光秀も自害しました。
光秀の懐刀『藤田伝五』
このように、藤田伝五は光秀からの信頼も厚く重用された武将でした。
特に筒井順慶が光秀に味方させることは、山崎の戦いの勝敗を決定づける重要な役割でした。
結果は失敗に終わり、光秀は小栗栖で自害。
伝五を含む五宿老も自害したり、捕まって処刑されたりと完全に壊滅しました。
もし伝五の交渉が成功していたら、また別の結果になっていたかもしれません。
そういった意味では、本能寺の変から山崎の戦いでの敗北までの運命を決定づけた重要な人物であり、明智光秀と運命を共にした戦友とも言えるのかもしれませんね。
まとめ
以上、明智光秀の重臣『藤田伝五』についてでした。
光秀に信頼され、運命を共にした藤田伝五。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、徳重聡さんが演じることが決定しています。
(ドラマでは『伝吾』)
どんな伝五像が描かれるのか、今から楽しみにしています。
他にも、明智光秀の性格や人物像、本能寺の変、家臣団についてなどの記事を扱っています。
ここを見れば『明智光秀』と、その妻『妻木煕子』のすべてが分かる!
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【明智光秀&妻木煕子 大特集】
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。