下剋上?上剋下?戦国時代の真実!人気の理由は地方の時代に有り

※当ブログではアフィリエイト広告を利用しています。

時代背景

ご来訪ありがとうございます!

『戦国時代は1590年まで』だと思っている拓麻呂です。

 

戦国時代・・・長い日本の歴史の中でも、幕末と並び非常に人気のある時代です。

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がこの時代の代表格ですが、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、今川義元、長宗我部元親と言った名前も一度は聞いたことがあるでしょう。

 

このように、沢山の英雄たちが凌ぎを削った時代が戦国時代な訳ですが、この時代が持つ一般的なイメージはどのようなものでしょうか。

 

下の者が上の者を打ち負かす下剋上の時代。

おそらく、このようなイメージではないかと思います。

 

確かに間違いではありません。しかし、半分は正解ですが半分は間違っているというのが僕の考え。

 

今回は戦国時代の歴史的背景である、下剋上という既成概念に迫るとともに、その人気の理由を探ってみたいと思います。

 

 

スポンサーリンク

人気の時代『戦国時代』

戦国時代に至る経緯

 

まず、戦国時代に至る経緯をご説明いたします。この背景が分からないと、下剋上のお話が少々理解しづらくなってしまいます。

 

戦国時代の少し前、室町時代は京都にいる足利将軍家(室町幕府)を中心として、全国各地に守護大名を配置し統治を任せています。守護大名とは現代で言うところの県知事のような存在です。(なお戦国時代とは室町時代の後半~安土桃山時代のことです)

 

しかし守護大名の多くは、幕府から京都在任を命じられており、守護を任された領地には住んでいません。そこで各地に守護代と呼ばれる、『守護大名の代わりにその地域を統治する人物』を指名し、領国の経営を任せていました。およそ全国各地このような統治機構となっていました。(京都から遠い地域、関東以東や九州は除く)

 

そんな中、1467年に日本を二分する大きな争いが起こります。

 

応仁の乱です。

 

日本各地で東軍と西軍に分かれて争い、約11年続いた応仁の乱。室町幕府はこの合戦を治めることが出来ず、その影響力は急速に弱まります。

 

全国にその悪影響を及ぼした応仁の乱により、各地の守護代も東軍、西軍に分かれて争い始めます。つまり、全国の守護代が守護大名や幕府の言う事を聞かず、好き勝手に暴れ始めたのです。

 

日本各地が混乱状態に陥ったことで、京都に詰めていた守護大名たちは、領地を平定する為に京都を後にします。自分の領地の混乱を集束させるための帰郷です。

 

しかし、ここで問題が起こります。守護大名が京都に詰めている間、守護代だちは自身の裁量で領国経営を行ってきました。そこに守護大名が帰ってれば、これまで一任されていた権限が奪われてしまう。つまり目の上のタンコブが戻ってくる。守護代にしてみれば、当然面白くありません。

 

このような背景があり、守護大名と守護代の争いが勃発します。

 

これが戦国時代の幕開けです。

 

 

 

下剋上だけでは無い戦国時代

このような背景の元、守護代が守護大名を蹴散らしてしまったケース、これがいわゆる『下剋上』です。

越前の朝倉氏、越後の長尾氏、出雲の尼子氏などが、このケースに相当します。

 

この守護代が守護大名を倒してしまった例が下剋上であり、戦国の初期段階で起こった現象なので、戦国時代のイメージとして浸透していると思われます。

 

しかしながら、この逆のパターンも存在します。守護大名が勝利したケースです。

 

これを『上剋下(じょうこくげ)』と言ったりします。

※この上剋下は一般的に認知されている歴史用語ではありませんのでご注意ください。

 

武田信玄で有名な甲斐の武田氏は、この上剋下によって、守護大名が戦国大名化した良い例です。他にも、駿河の今川氏、周防長門の大内氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏なども元から守護大名であり、守護から戦国大名化した一族です。

 

 

ついでながら、もう一例。

上記二つのパターンに属さない例も存在します。『国衆』とよばれる小さな領主から戦国大名化した例です。これは下剋上の部類に属します。

 

基本的に戦国大名の家臣団と言うものは、直属の家臣を除けば国衆の連合体です。戦国の初期段階に限りませんが、混乱に乗じて国衆から戦国大名化した一族。

 

代表的な例として、三河の松平氏、安芸の毛利氏、肥前の龍造寺氏などが該当します。国衆出身ではありませんが相模の北条氏なども、これに属するでしょう。

 

一部例外もありますが、おおよそ戦国大名と呼ばれる存在には、以上三つのパターンが存在します。

 

・守護代から戦国大名へ

・国衆から戦国大名へ

この二つがいわゆる下剋上。

 

そしてもう一つ。

・守護大名から戦国大名へ

これが上剋下であり、下の者を蹴散らして戦国大名化しています。

 

このように戦国大名とは、必ずしも下剋上で成り上がった訳ではなく、むしろその逆(武田、今川、大内、大友、島津)も多く存在しているのです。

 

よって、戦国時代を下剋上の時代とひとくくりにイメージしてしまうと、この時代の本質を見誤ることに繋がるのです。

 

スポンサーリンク
 

地方の時代だからこそ人気の戦国時代

このようにして、室町幕府の失墜によって戦国時代は始まりました。室町幕府が機能しなくなるという事は中央政権の崩壊を意味します。

 

つまり戦国時代とは、無政府状態の時代なのです。これは日本史上に類を見ない異常事態です。

 

しかしながらそんな異常事態の中で、下剋上あるいは上剋下によって力を持った戦国大名たちが、それぞれの法律を作って自身の領地で運用していきます。

 

これを分国法と言います。

 

この分国法を元に、全国各地で独自の自治体制が成立した事実。これこそ正に戦国時代が地方の時代と言える理由です。

 

そして、地方の時代であるからこそ、各地で沢山の英雄が生まれ活躍の場を与えられました。中央政権が盤石であれば、歴史の中心は中央政権にあり、後世の人々の目は中央政権に向けらたはずです。

戦国時代に登場した山梨県の武田家当主(信虎、信玄、勝頼)は有名ですが、武田家が守護大名だった頃の武田家当主をご存知の方がどれほどいるでしょうか?

 

地方の時代だったからこそ、戦国大名たちはそれぞれの地域で主役になることができ、歴史の表舞台に現れました。

 

現代も人気の戦国時代・・・それは個性的な主役たちがキラ星のごとく出現した、特異な歴史的背景に支えられているのです。

 

では、今回はこの辺で!ありがとうございました。