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拓麻呂です。
紫式部の源氏物語執筆には、ひとつの伝説があります。
場所は滋賀県大津市にある石山寺。
ここで、とある出来事があり、源氏物語の執筆が始められたと言います。
この記事では、源氏物語執筆にまつわる石山寺伝説を見て行きたいと思います。
石山寺伝説
伝説の内容
まずは、石山寺の伝説、紫式部や源氏物語との関係性について見て行きます。
第62代村上天皇の娘である選子内親王(せんしないしんのう)から、彰子(しょうし)に「珍しい物語が読みたい」という要望がありました。
彰子は中宮(天皇の正妻)で、紫式部が仕えていた女性です。
彰子は、紫式部に執筆を依頼。
紫式部派執筆のために、琵琶湖のほとりにある石山寺へ籠りました。
8月15日の夜、紫式部は琵琶湖の水面に写る月を見て「今宵は十五夜なりと思し出でて」と書き始めました。
これが、源氏物語の12帖『須磨の巻』であり、ここから源氏物語は書き始められたと伝わっています。
(12帖とは、現代風に言えば12巻、12話的な意味。源氏物語は全部で54帖ある)
これが、源氏物語執筆にまつわる、いわゆる石山寺伝説です。
最初に書いたのは桐壺じゃなかったの?
源氏物語は、全部で54帖(54巻)。
1帖(1巻)は『桐壺』という女性の話から始まります。
1帖 桐壺(きりつぼ)→2帖 帚木(ははきぎ)→3帖 空蝉(うつせみ)→4帖 夕顔(ゆうがお)→5帖 若紫(わかむらさき)→6帖 末摘花(すえつむはな)→7帖 紅葉賀(もみじのが)→8帖 花宴(はなのえん)→9帖 葵(あおい)→10帖 賢木(さかき)→11帖 花散里(はなちるさと)
そして、ようやく石山寺伝説に登場する12帖『須磨(すま)』のお話になります。
つまり、石山伝説に従うと、1帖の『桐壺』から書き始められたのではないことになります。
実際のところ・・・
石山寺の伝説は、あくまで伝説であって、事実とは異なるというのが一般的な説です。
最初に書かれた部分も、『帚木』説、『若紫』説などもあり、ハッキリしていません。
史実だと、紫式部は彰子に仕えるために宮仕えを始めています。
石山伝説に従うならば、源氏物語執筆の段階で、紫式部は彰子と知り合っていることになります。
つまり、源氏物語は、紫式部の宮廷出仕後に書き始められたことになります。
しかし、源氏物語は宮廷出仕前から書き始められており、世間の評判になっていたと言われています。
その評判があったからこそ、時の権力者の藤原道長(彰子の父親)が紫式部を知り、宮仕えの要請をしたのが始まりです。
この辺はコチラの記事が詳しいです。

なので、源氏物語は、石山寺で書き始められたわけではないというのが、現在の定説です。
ただ、ここで史実では無いからといって切り捨ててしまっては、教科書的な歴史になってしまって面白くありません。
こういった伝説が残っているということ自体、昔から源氏物語が広く愛されてきたことの証明です。
史実じゃないと切り捨てるのは簡単ですが、なぜそうった伝説が生まれ、伝承されているのか?という部分を突き詰めて見るのも、歴史を知る楽しみなのではないかなと、僕は考えています。
まとめ
以上、源氏物語と石山寺の伝説でした。
石山寺伝説は史実とは言い難いですが、伝説が残っていることに価値を感じ、源氏物語の奥深さを感じることが出来ます。
そんな石山寺に、一度は行ってみたいなと思っています。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。