強い愛で結ばれた夫婦として知られる天皇とその中宮。
第66代天皇『一条天皇(いちじょうてんのう)』
この記事では、
・一条天皇と定子の年齢差は?
とった情報もお伝えしていきます。
一条天皇と中宮定子の皇子である『敦康親王』に関する非常に重要な記述となりますので、ぜひ最後までお読みいただけると嬉しいです。
※定子は後に皇后となりますが、本記事では煩雑さを避けるため「中宮定子」あるいは「定子」の表記で統一しています。
一条天皇と定子の家系図と子供たち
一条天皇と中宮定子に関する系図を作成しましたので、まずはコチラをご覧ください。
一条天皇と中宮定子は夫婦でありつつ、いとこでもあります。
定子の父『道隆』と一条天皇の母『詮子』は兄と妹の関係になるため、一条天皇と定子は いとこ になるわけですね。
さらに、後に一条天皇の中宮となる彰子の父親『藤原道長』も、道隆&詮子の弟にあたるため、一条天皇と定子と彰子は全員 いとこ となるのです。
そして、一条天皇と中宮定子の子供は、
・長男:敦康親王
・次女:媄子内親王
の3名です。
唯一の男子だった敦康親王でしたが、残念ながら天皇になることはなく、20歳の若さで亡くなっています。
そして、次女の媄子内親王はわずか9歳で亡くなっています。
そんな中、長女の脩子内親王は、生涯未婚であったものの父親の一条天皇にも可愛がられ、腹違いの弟(母は彰子)である後一条天皇や後朱雀天皇の異母姉として52歳の生涯を生き抜きました。
また、現存する枕草子の写本のひとつである「枕草子能因本奥書」によると、非常に状態の良い枕草子の写本、もしくが限りなく原本に近い写本を所持していたと伝わっています。
枕草子自体が、中宮定子に捧げる作品であり、定子鎮魂の書であるという性格を持っているので、脩子内親王が状態の良い枕草子を所持していたというのも頷けますね。
一条天皇と定子の年齢差
続いて、一条天皇と定子の年齢差についてお伝えします。
定子は、976年(貞元元年)の生まれ
です。
つまり、定子の方が4歳年上で姉さん女房になるわけですね。
ちなみに、定子が入内した(一条天皇と結婚した)のは、15歳の時なので、一条天皇は11歳です。
当時は数え年なので、今の年齢に当てはめると、定子が14歳(中学2年生)、一条天皇が10歳(小学4年生)の時に結婚している計算になります。
子供の頃の4歳差はかなり大きなものがありますので、小学4年生視点での中学2年生は、かなりお姉さんに見えたと思われますね。
枕草子だけに記された秘密の逢瀬
そんな一条天皇と中宮定子ですが、『長徳の変』という事件を原因となり、離れ離れで暮らすことになってしまいます。
長徳の変をきっかけに定子が出家してしまったので、中宮としての正当な立場を失ってしまったからです。
結果、定子は内裏から職の御曹司(しきのみぞうし)という場所に移り住むことになります。ちなみに職の御曹司は、内裏から道を挟んで隣にあった建物です。
定子が職の御曹司に移り、一条天皇と会えなくなっていた期間があったのですが、一条天皇の定子への愛はとどまるところを知らず、定子を内裏に呼び戻していた期間がありました。
そんな秘密の逢瀬を記す唯一の記録が、清少納言の枕草子に綴られているのです。
雪山の賭けに潜む意味深な一文
そんな一条天皇と定子の逢瀬が記されているのが、枕草子八二段『職の御曹司におはしますころ、西の廂にて』、通称『雪山の賭け』と呼ばれる章段です。
※章段数は『講談社学術文庫 枕草子(上)』に準じています。
この段では、常陸の介(ひたちのすけ)という渾名を付けられたホームレスの尼が登場したり、雪山を作りその雪山が年内に溶けてなくなってしまうか、来年まで溶けずに残っているかという賭けを女房たちが行う章段となっています。
ちなみに、来年まで溶けずに残っている方に賭けていたのは清少納言一人だけでした。
全体の印象としては、わちゃわちゃしていて楽しそうな雰囲気なのですが、この「雪山の賭け」の中にひっそりと一条天皇と定子の逢瀬を匂わせる記述がいくつか存在するのです。
その匂わせの中で最も注目したいのが以下の一文。
にはかに内裏へ三日入らせたまふべし
定子様は1月3日に内裏に入らなければならない
雪山が溶けるか溶けないか?その佳境に入ったタイミングで、さらりと書かれているこの一文。
定子と一緒に内裏へ赴く清少納言は、続いてこんなことを言っています。
雪山の最後を見届けられなくて残念
あくまで話のテーマは雪山の賭け、清少納言の関心事も雪山の行く末。
しかし、その中に紛れ込んでいる意味深な一文が「にはかに内裏へ三日入らせたまふべし」なのです。
定子が内裏に入った理由
なぜこの定子は内裏に入る必要があったのか?それは、一条天皇との逢瀬を果たすためであったと考えられています。
この一文の他にも、同段には定子と一条天皇の逢瀬を匂わす記述がいくつかあります。
・二つ目は『一条天皇の女房である右近の内侍がたびたび職の御曹司に顔を見せていること』
・三つ目は『一条天皇の使いとして式部の丞 忠隆が定子を訪ねてきたこと』
・四つ目は『賀茂斎院 選子内親王から卯槌(邪気払いの道具)と手紙が届いていること』
などが記されています。
一つ目の『不断の御読経』は1日中行われる読経で、強く願うことがある時に行われます。この時は定子と一条天皇が皇子を授かるように読経が行われていたのかもしれません。
ちなみに、彰子の出産時にも安産祈願として不断の御読経が行われていたことが、紫式部日記にも書かれています。
二つ目の『右近の内侍(うこんのないし)の来訪』に関しては、定子サイドと段取りすることがあったからこそ、一条天皇の女房である右近の内侍が職の御曹司を訪れていたと考えられます。
三つ目の『一条天皇の使い式部の丞 忠隆の来訪』に関しても、やはり定子サイドに伝えるべき重要な事柄があったからこそやってきたのでしょう。
四つ目の『斎院から卯槌と手紙が届いたこと』に関しても、健やかな皇子を授かることを祈念して贈られたものを思われます。
なお、賀茂斎院(かものさいいん)とは賀茂神社(現在の上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕する女性で、代々未婚の皇女から選出されていました。この時の斎院は選子内親王で、第64代円融天皇の妹にあたる人物です。
以上4つの出来事を加味した上で、清少納言の
定子様は1月3日に内裏に入らなければならない
という言葉を見てみると、やはり定子が内裏に入る理由は、一条天皇との逢瀬だったのではないでしょうか。
この一条天皇と定子の逢瀬は、枕草子だけが記す重要な出来事なのです。
しかしながら、ひとつ疑問が残ります。
清少納言は何故このような重要な事実を、雪山の賭けという話題の中に紛れ込ませたのでしょうか。
清少納言の書きぶりからして、あくまでメインストーリーは雪山が溶けるか溶けないかであって、定子が内裏に赴くことは、雪山の賭けの最中に起こった些細な出来事のように、サラっと触れているだけです。
この背景には、おそらく当時の社会情勢が大きく関係していると思われます。
①藤原道長の権勢
一条天皇ご自身も定子出家以降、新たに入内した女御(義子、元子、後に尊子)との間に子が出来ず、皇子を望んでいたと考えられます。
ゆえに、愛する定子を呼び戻したと思われますが、それと同時に動いていたのが当時権勢を振るいはじめていた『藤原道長』です。
一条天皇と定子の逢瀬から少し後、藤原道長は自身の娘である彰子を入内させます。これにより、後に彰子が中宮となり、定子が皇后となりました。
道長にしてみれば、我が子の彰子が一条天皇の皇子を産めば外祖父になれるわけで、より権勢が強まりますが、彰子は数え年12歳(現在の11歳、小学5年生)くらいの年齢でしたので、すぐに出産というわけにもいきません。
とは言え、これは想像も含みますが、道長としては彰子の入内で自らの権勢をより強固なものにしたいという野望があったとしてもおかしくはないでしょう。
このように藤原道長が猛威を振るっている真っただ中で実現したのが、一条天皇と定子の逢瀬だったのです。
②世間の目
そしてもうひとつ。
あくまで定子は出家の身。つまり現世を離れた立場です。
そんな定子が一条天皇の皇子を産んだ場合、その子は東宮(皇太子)として資格を有するのか?といった問題もありました。
そもそも出家したことで、中宮のポジションを手放したとも捉えられるのため、定子が産んだ子供はその正当性が疑われてしまうのです。
にも関わらず、一条天皇の愛を一身に受け続けていた定子は、貴族たちから白い目で見られていた部分もあったようです。
雪山の賭けに隠れた清少納言の真意
以下の内容は、筆者の妄想も含むことをご了承ください。
藤原道長の権勢、そして世間の目、これらの社会情勢を鑑みた結果、清少納言はあえて雪山の賭けの中に一条天皇と定子の逢瀬を潜り込ませたと考えられます。
政敵であった道長が権勢を振るい、さらには世間から冷たい目で見られる定子。
そんな状況の中で、定子が一条天皇との逢瀬を遂げる為、内裏に呼び戻されたと大っぴらに書き残すわけにもいかなかったのでしょう。
しかし、定子は一条天皇との愛を確実に育んでいたのです。
そして、この逢瀬から約10ヶ月後、定子は皇子(敦康親王)を出産しています。
権力者や世間を敵に回しても、なお一条天皇から愛され続ける定子の存在。
それは、定子に忠誠を誓った清少納言にとっても喜ばしい出来事だったと考えられます。
悲劇の中宮と言われる定子の負の側面など一切書くつもりのなかった清少納言。
枕草子に登場する定子はいつも雅に笑っています。
定子様はいつも機知に富み、気高さを失わない理想の中宮。
だからこそ、この逢瀬を枕草子に書き残す必要があったのです。
しかし、藤原道長の権勢を無視するわけにもいかず、世間からの冷たい目も十分に理解している。
そこで清少納言がとった作戦が、雪山の賭けという社会情勢とは隔絶した遊びの中に、一条天皇に愛される定子様のお姿を紛れ込ませることでした。
明確には書かず、しかしよく読めば伝わるように。
当時の記録の中で、枕草子だけにこっそりと記された出家後の定子の参内。
そこには、清少納言の大切な想い、そして枕草子の執筆意図が隠されていたのです。
雪山の行く末
枕草子だけに記された秘密の逢瀬については以上になります。
ところで、逢瀬をカモフラージュするかの如く語られていた雪山は、結局どうなったのでしょうか?
実はこの雪山、だいぶ小さくなって黒ずんだりしていたものの、年明けまで残っていて、賭け自体は清少納言が勝ったような感じになっています。
ですが正確に言うと、清少納言は1月15日まで残っていてほしいと語っており、実際14日の夜まで雪山は残っていました。
しかし、15日になってみると、雪山はきれいさっぱり無くなっていたのです。
なぜ雪山は突然消えてしまったのでしょう?
実はこの章段には意外な結末が用意されており、その解釈は今なおハッキリしていません。
雪山の賭けはどんな結末を迎えるのか?
ぜひ枕草子を紐解き、その結末を確認して頂けると嬉しいです。
【参考にした主な書籍】