屈辱の関ヶ原・・石田三成の誤解された性格と家紋の意味とは?

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戦国時代と戦国武将

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拓麻呂です。

 

1600年9月15日 関ヶ原の戦い

『大一大万大吉』の旗印を掲げ、西軍の指揮を執る武将の姿がありました。

 

石田三成

 

関ヶ原で敗れた三成が掲げていた『大一大万大吉』の旗印に込められた想い。

そこから見えてくる石田三成の性格と、その真実に迫ります。

 

 

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大一大万大吉 石田三成

出典:Wikipediaより

石田三成は悪者か?

一般的な石田三成のイメージと言えば、周囲から恨みを買うような堅物。

後世の印象は決して良いとは言えません。

 

例えば、三成にまつわる黒い噂は以下のようなものがあります。

 

  • 千利休の切腹
  • 蒲生氏郷の毒殺
  • 豊臣秀次の切腹と一族粛清

 

これらの事件の裏には、三成の意見があったと言われています。

もし、これが本当だとすれば三成は確かに悪者かもしれません。

 

おかしくなった晩年の豊臣秀吉が下した決定も、三成の意見が色濃く反映されているとも言われ、加藤清正や福島正則らも、相当の恨みを買っていたとも言われています。

 

加藤清正や福島正則は、秀吉に取り立てられ、秀吉にとても恩のある武将たち。

 

実際に、加藤清正たちによる三成襲撃事件が発生しているので、秀吉に信頼され側近くに仕えていた三成は、当時から良くないイメージを持たれていたのかもしれません。

 

 

しかし、これは三成の一側面に過ぎません。

実際、三成の暗躍を憶測の粋をでていません。

 

ではなぜ三成には、こんな黒い噂が付きまとっているのでしょうか?

 

 

関ヶ原に敗れた大きすぎる代償

三成の印象が良くない理由。それは『関ヶ原の戦いで負けたから』

 

これだけです。

 

徳川家康は、関ヶ原の勝利によって天下の趨勢を決定づけます。

 

後に260年続く江戸時代の礎を築いた神君 家康公。

江戸時代における家康は、絶対的な正義になります。

 

そんな家康に盾突いた三成は、当然悪者でなければなりません。

 

さらに、家康の天下というのは、見方によっては豊臣政権の強奪です。

秀吉亡き後に豊臣政権を横取りした家康政権を正当化するためには、絶対悪が必要になります。

 

その対象とされたのが石田三成です。

 

このように一般的な三成の悪いイメージは、関ヶ原で敗れたことに起因しているのです。

 

 

三成のもうひとつの側面

では、石田三成のもう一つの側面から、彼の性格を紐解いてみましょう。

 

大谷吉継との友情

三成の盟友をして名高い『大谷吉継』とのエピソード。

 

ある日、秀吉が催した茶会に参加していた三成と吉継。

 

一口ずつ茶を回し飲みすることになり、吉継のところに茶碗が回ってきました。

しかし、吉継は らい病を患っており、茶碗の中に膿を落としてしまいました。

 

それを見ていた周囲の諸将は飲むのを嫌がり、回し飲みがストップしてしまいます。

嫌な空気が漂う茶会。

 

秀吉主宰の茶会で犯した大失態に吉継は青ざめます。

 

その瞬間・・・

 

『喉が渇いて仕方がない!早く茶碗を回してくれんか?』

 

三成がストップした茶碗を奪い、膿の入った茶を一気に飲み干しました。

 

『全部飲んでしまったから、もう一杯茶を注いでくれ』

 

秀吉に仕えた頃から三成と親交のあった吉継。

そんな親友の危機を救った三成の見事な起点により、茶会は滞りなく進めることができました。

 

 

三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近に 佐和山の城

石田三成の配下に『島左近(しま さこん)』という武将がいます。

左近は武勇に優れた、とても優秀な武将でした。

 

三成は左近を含め蒲生頼郷など、優秀な武将を積極的に登用していきました。

しかし、高禄で召し抱えた為、三成はかなり困窮した生活をしていたと伝わっています。

 

関ヶ原の後、三成の居城『佐和山城』には、ほとんど金銀が残っておらず、三成はかなり逼迫した生活を送っていました。

 

天下の為、優秀な人材を雇い政治を行っていたであろう三成の姿が見えてくるエピソードです。

 

 

大一大万大吉

そんな三成が掲げた旗印。

 

『大一大万大吉』(だいいち だいまん だいきち)

 

大一大万大吉には、このような意味が込められています。

 

1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる

 

ほとんど蓄財の残っていなかった佐和山城。

そんな佐和山城からも伝わってくる三成の想い。

 

それが『大一大万大吉』です。

 

現在に伝わる三成の黒いイメージは、彼の一側面に過ぎません。

石田三成は、徳川幕府の正当性を示すために、その泥水を全て被ることになった人物なのです。

 

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石田三成の本当の性格

家康に盾突いた人物としては真田幸村の存在も欠かせません。

しかし、幸村はどちらかと言うと、家康を追いつめた英雄としての印象が強いかもしれません。

 

これも家康を持ち上げる為の、幸村の一側面に過ぎません。

 

強い幸村を倒して天下を取った家康はもっと強い!

そういった、江戸時代のプロバガンダのようなものです。

 

三成も幸村も人間です。

 

人間は一側面では決して把握しきれない、多様な側面を持っています。

 

信長だって魔王のようなイメージがありますが、それは晩年の絶頂期の姿であり、天下への歩みを始めたばかりの信長の姿は決して魔王ではありません。

 

当然、三成にも多様な側面があったはずです。

 

関ヶ原の戦場に翻った大一大万大吉

その旗印からは、石田三成という男の一つの姿を見ることができるのです。

 

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。