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拓麻呂です。
戦国時代は全国各地で様々な合戦が発生した時代です。
小さい小競り合いも含めれば、ほぼ毎日のように争いが起きていました。
そんな数々の合戦の中でも、各地域を代表する戦国武将たちが活躍した戦いを、僕の偏見でピックアップしてみたいと思います。
戦国時代を知るには、まずはこの辺の合戦を知っておくと、この後より一層戦国時代や戦国武将に興味が湧いてくるかと思います。
今回ご紹介したい合戦は『川越夜戦』
戦国三大奇襲戦に数えられる、相模の獅子『北条氏康』を代表する合戦です。
そんな『川越夜戦』を、簡単にまとめてみましたので戦国時代を知る入り口にして頂けたら幸いです。
※川越夜戦に関する史料は、江戸時代の軍記が主であるため、史実を伝えていない可能性があることをご了承の上お読みください。
戦国時代の主要合戦『川越夜戦』
1546年 北条氏康 ~相模の獅子 奇跡の大逆転!川越夜戦~
【合戦名称】
川越夜戦、川越城の戦い
【発生年月日】
天文15年(1546年)年4月20日(5月19日)
【参加した主要人物】
北条氏康vs関東連合軍(山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、足利晴氏ほか)
北条氏
- 北条氏康(ほうじょう うじやす)
- 北条綱成(ほうじょう つなしげ)
- 北条幻庵(ほうじょう げんあん)
- 大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)
- 多目元忠(ため もとただ)
関東連合軍
- 山内上杉憲政(やまのうちうえすぎ のりまさ)
- 扇谷上杉朝定(おうぎがやつうえすぎ ともさだ)
- 足利晴氏(あしかが はるうじ)
- 長野業正(ながの なりまさ)
- 小幡憲重(おばた のりしげ)
- 成田長泰(なりた ながやす)
- 太田資正(おおた すけまさ)
- 小田政治(おだ まさはる)
【兵力】
北条軍 約1万
関東連合軍 約8万
【勝者】北条氏康
合戦の概要
相模の獅子『北条氏康』が約八倍の兵力差をひっくり返して奇跡の大勝利を手にした合戦。
一般的には『川越夜戦(かわごえよいくさ)』という呼称で呼ばれています。
相模国(神奈川県)の小田原城を本拠とする北条氏が、関東で次第に勢力を拡大していく中、旧勢力である、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏、扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)氏、そして古河公方 足利氏が結託して、北条氏をぶっ潰そうとした合戦です。
※古河公方・・・関東の将軍みたいなもの
この時、武蔵国(埼玉県)の川越城を守備していたのが、地黄八の旗印で有名な猛将 北条綱成(つなしげ)。
綱成が守る川越城を奪取しようと、関東連合軍8万が川越城に押し寄せます。
川越城を守る兵力は約3千、北条氏康率いる援軍が約8千、合計約1万ちょい。
しかし、北条氏はこの兵力差を見事にひっくり返しで大勝利を手にします。
圧倒的な兵力に物を言わせる関東連合軍。
その驕りに、氏康は漬け込みます。
氏康は負けを認めたフリをし、和議を乞う書簡を関東連合軍に送り続けます。
ただでさえ驕りがあった関東連合軍は、この書簡により完全に油断しました。
『氏康にもはや戦意は無い、北条恐れるに足らず!もはや楽勝楽勝!!』
緊張感を失い、惰性で川越城を包囲する関東連合軍。
氏康は、その隙を逃しませんでした。
奇襲!相模の獅子と翻る地黄八幡
辺りは草木も寝静まった真っ暗闇。
氏康は兵たちの鎧兜を脱がせ身軽にさせた上で、寝静まった関東連合軍に突撃を慣行します。
完全に油断しきって寝ていた関東連合軍は、突然の奇襲に慌てふためきます。
兵装も整わず寝ぼけた状態で北条軍の奇襲を受けた関東連合軍は大混乱に陥り、統率が取れなくなってしまいます。
こうなると、大軍と言うのは不利に働くもの・・・。
関東連合軍は収集が付かなくなり、もはや戦いどころではありません。
その時・・・
沈黙を守っていた川越城の門が開き、関東連合軍めがけて突撃してきました。
翻る『地黄八幡』の旗印。
川越城を守備していた北条氏きっての猛将 綱成軍が城内から打って出てきたのです。
氏康率いる本隊と、川越城から飛び出してきた綱成軍に挟まれ大混乱に陥った関東連合軍は、完全に戦意を失い、兵たちも散り散りに敗走。
その最中、関東連合軍の大将格である扇谷上杉朝定は討ち取られます。
こうして北条氏康は約八倍の兵力を撃破し、関東における地盤をより強固なものとすることが出来たのです。
北条氏康の評価
以上が川越夜戦と言われる合戦です。
この後、北条氏康は近隣諸国の武田信玄や上杉謙信、今川義元など強大な勢力を誇る大大名たちと凌ぎを削っていくことになります。
しかし、信玄や謙信などに比べ、北条氏康の知名度はあまり高くないように思います。
川越夜戦で劇的な勝利をものにした氏康ですが、実際のところ、信玄や謙信のような派手さが無く、比較的堅実に物事を進めていった印象が強いです。
武田信玄、上杉謙信に居城である小田原城を包囲されたりしていますが、この時も城に籠って一発勝負にでるような行動はしていません。
また、氏康は戦上手というよりは民政家としての側面が強く、信玄や謙信に比べるとどうしても地味な印象は拭えません。
関東を蹂躙した名将であることは間違いありませんが、ちょっと地味なところが知名度の低い要因なのかもしれません。
上杉謙信の本当のライバル『北条氏康』
最後に上杉謙信と北条氏康の関係について、僕の考えをお伝えします。
上杉謙信と言うと、武田信玄とのライバル関係ばかりに目が生きがちですが、実際のところ、謙信の生涯の敵は北条氏です。
謙信は室町幕府から『関東管領(かんとうかんれい)』という役職を与えられています。
『関東管領』とは、関東の統治権を持つ役職です。
この『関東管領』である以上、関東制覇を目指していた北条氏こそ、上杉謙信の本当のライバルであったと僕は考えています。
また氏康は、武田信玄との同盟関係を結んでいたりもするので、北条氏康、武田信玄、上杉謙信の3方向から歴史をみる事で、この時代の関東が理解出来るのかなとも思います。
個人的には北条氏康、結構好きなんですけどね!
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。