紫式部の大親友『小少将の君(こしょうしょうのきみ)』。
またの名を『上東門院小少将(じょうとうもんいん こしょうしょう)』。
友達が少なかった紫式部にとって小少将の君は、とても大切な存在で、宮廷内でも唯一心を許せる存在だったようです。
とは言え、小少将の君に関しては、ほとんど情報が残っていません。
そんな小少将の君の、性格や容姿などの人物像を、紫式部日記に書かれた記述を元に、紐解いてみたいと思います。
小少将の君のプロフィール
かなり情報が少ない人物ですが、分かっていることも若干あるのでお伝えします。
小少将の君は『大納言の君』という女性の妹です。大納言の君も、紫式部と親しい間柄でした。
大納言の君と小少将の君の父親は、源時通という人物とされています。
(小少将の君の父親は源扶義という説もありますが、この記事では源時通の子とする説で話を進めます)
この源時通は、藤原道長の正妻『源倫子』の兄弟。
つまり、小少将の君は、藤原道長夫妻から見れば姪に当たります。
さらに、小少将の君が仕えていた『彰子』は藤原道長、源倫子夫妻の娘です。
つまり、彰子と小少将の君は主従関係でありながら、血縁では従妹(いとこ)になります。
このような血縁関係なので、小少将の君は、かなり身分の高い女房(上臈女房)だったと思われるのです。
小少将の君の見た目と雰囲気
小少将の君の雰囲気を、紫式部が自身の日記(紫式部日記)に書き残しています。
まずは、その内容を確認してみましょう。
【原文】
小少将の君は、そこはかとなくあてになまめかしう、二月ばかりのしだり柳の様にしたり。やうだいいとうつくしげに、もてなし心にくく、心ばへなども、わが心とは思ひとるかたもなきやうに物づつみをし、いと世をはぢらひ、あまり見ぐるしきまで児めい給へり。腹きたなき人、悪しざまにもてなし言うつくる人あらば、やがてそれに思ひ入りて、身をも失ひつべく、あえかにわりなきところつい給へるぞ、あまりうしろめたげなる。
現代風に言い換えてみます。
小少将の君は、なんとなく優雅で上品な印象です。2月の枝垂れ柳のような雰囲気です。
見た目はとても可愛らしく、物腰もおっとりしていて、自分で物事が決められないほど控えめで、ものすごく人見知り。
見ていられないくらい子供っぽい女性です。
もし意地悪な人が、小少将の君を悪く言い、彼女がそれを知ってしまったら、くよくよ考え込んで立ち直れなくなってしまうような、か弱い女性です。
いかがでしょうか?
小少将の君は、とても繊細でか弱い女性だったようです。また、子供っぽさも持っていたようで、かなり可愛らしい見た目をしていたようですね。
ちょっと頼りなさそうな感じですが、紫式部が宮仕え初日に総スカンを食らう中、唯一まともに接してくれたのが小少将の君でした。
なお、紫式部の総スカン事件の詳細は、コチラの記事をご覧ください。
紫式部の親友!小少将の君
紫式部が総スカンを食らっ時に優しく接してくれた小少将の君。後に紫式部の親友となります。
かなり親しくしていたと思われる逸話が、紫式部日記に書かれているのでご紹介します。
紫式部と小少将の君は、それぞれの局(つぼね、自分の部屋みたいなもの)の几帳(きちょう、部屋の仕切りのこと)を取っ払って、一つの局にしてしまい、同じ空間で共同生活をしていました。
その様子を見ていた藤原道長が、
お互いに相手が知らない男がやってきたらどうするのか?
と問いかけてきました。
しかし、紫式部と小少将の君は
二人の間で秘密なんかありません!
秘密で恋人を作ったりしません!
と言っていたとのこと。
この他にも、紫式部日記には二人が仲良くしている描写があり、小少将の君は紫式部が唯一心を許せる友人だったことが察せられます。
しかし、小少将の君は若くして亡くなってしまいました。生没年はハッキリしませんが、長和2年(1013年)あたりに亡くなったとされています。
悲痛!紫式部
紫式部日記を見る限り、紫式部は人付き合いが苦手で友達も少なかったと思われます。
そんな紫式部にとって、宮仕え初日に無視せず普通に接してくれた小少将の君は、心の許せる唯一の親友でした。
小少将の君が若くして亡くなった時の悲しみは、かなり大きかったと思われ、紫式部の和歌を集めた『紫式部集』には、小少将の君に捧げる哀傷歌が五首も残されています。
暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の あはれを知るぞ かつはかなしき
わが身は今日の暮れぬ間だけの命で、明日はどうなるかわからないことも考えずに、あの方の生涯のはかなさを知るのは悲しいことです。
たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消せえぬ 形見なれども
誰が今後生き永らえて、あの方の手紙を見ることでしょう。書き残されたこの筆の跡は消えずの残る形見ですけれど。
亡き人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を
亡き人を悲しみ慕うこともいつまで続くことでしょう。今日人の死を無常だと思っていることが、明日はわが身に訪れることですのに。
天の戸の 月の通ひ路 ささねども いかなるかたに たたく水鶏ぞ
この夕月のさす宮中では戸もしめていないどだけれど、一体水鶏はどちらで戸をたたいているのでしょう。
槇の戸も ささでやすらふ 月影に 何をあかずと たたく水鶏ぞ
この夕日のもとに、私たちは、寝ようかどうしようかと、槇の戸も閉ざさずにいますのに、水鶏は、何が開かないで不満だといって鳴くのでしょう。
※上記五首の現代語訳は「新潮日本古典集成〈新装版〉紫式部日記 紫式部集」より引用しています。
このように、五首もの和歌を残している事実からもわかる通り、紫式部の悲しみは、かなり深いものだったのでしょう。
小少将の君まとめ
以上、小少将の君に関してでした。
史料が少なく、全体像が掴みにくい女性ですが、紫式部が心を許せた数少ない人物だったのは間違いありません。
彼女がもし長生きできていたら、紫式部の親友として何かしらのエピソードを残していたかもしれませんね。
そう考えると、早世したことが悔やまれる女性ですね。
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