【虚構に包まれた真実の美学が、1,000年の時を超え燦々と煌めく】
そんな奇跡の文学が、この日本に現存している。
「枕草子」
平安時代の中期、清少納言が著した随筆である。
「春はあけぼの」のフレーズで有名な本作は、読み物としてよりも学校で教わる古典教材としてのイメージが強い。
しかしながら、春はあけぼのに続くその内容に目を向けてみると、涙なしには決して読めない独特の雰囲気を持つ名著であることに気付かされる。
枕草子の魅力を一言で語るのは難しいが、あえて表現するならば、
『虚構に包まれた真実の美学』
となるだろうか。
輝かしかった過去の追憶、過去の栄光が輝かしければ輝かしいほど、想い出に勝つことは出来ない。
しかし、「想い出こそが至高である」とするのが枕草子である。
そんな枕草子の魅力を存分に語ろう。
それでは、清少納言著「枕草子」の世界へ・・・。
枕草子が書かれた背景
まずは、枕草子の魅力を味わい尽くすためには、本作が書かれた背景を知っておかねばならない。
端的に言ってしまうと、枕草子とは清少納言に逆風が吹いている中で書かれた作品である。
そして、枕草子の魅力を存分に引き出すためには、清少納言の他にもうひとり知っておかなければならない人物がいる。
「藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)」である。
ここからは簡単な執筆背景のお話しになるので、すでにご存じの方は読み飛ばしていただいても構わない。
まず、藤原定子とは天皇のお后様であり、その定子に仕えていたのが清少納言である。
定子と清少納言は主従関係を超えた強い絆で結ばれており、当意即妙な二人のやりとりも枕草子に綴られている。
天皇の后として一時は栄華を極めた定子だったが、父の逝去とともにその栄光に陰りが見え始めた。
さらには定子の兄の軽率な行動により、定子の叔父にあたる藤原道長が栄華を欲し台頭、定子とその一族は崩壊の一途を辿る。
このような中で清少納言は道長との内通を疑われ、実家に引きこもるのだが、この時に書き始めたのが枕草子である。言い換えるならば、枕草子は定子が没落していく中で書かれた作品となる。
※このへんの経緯を詳しく知りたい方は↓コチラ↓の記事をご覧ください。

しかし、枕草子は定子の悲哀を一切書き留めない。
枕草子に登場する定子は、かつての煌びやかな存在のまま、清少納言たちに優しい笑顔を見せ続ける。
栄華を藤原道長に奪われ、さらには一族が没落する中で、定子が笑顔だけでいられたとは考えられない。そういった面もあったかもしれないが、悲嘆に暮れる定子の姿もあったはずである。
しかし、没落前も没落後も、枕草子に登場する定子の姿は変わらない。
これが枕草子の虚構である。
この虚構は一貫しており、清少納言にとっての最大の悲しみすら書き残すことをしなかった。
定子の死である。
定子は第三子を出産後、悲運の中で世を去った。24歳の若さだった。
定子に忠誠を誓った清少納言の悲しみは想像に難くない。
だが、笑顔とは程遠い死と言う悲しみを清少納言は書かなかった。
定子存命中は定子を勇気づける為、定子の死後は定子の鎮魂にために筆を走らせ続けた。
枕草子の定子とその周辺はどんな時でも笑いに溢れる。
そして、いついかなる時も雅な振る舞いを忘れない。
定子の陽の部分のみを切り取り、陰の部分には全く触れない。
これが枕草子である。
藤原道長に一矢報いる
定子とその一族を追い落とし、栄華の頂点に立った藤原道長。
定子の栄光時代を切り取り、没落していく中でも雅に振る舞う定子の姿を綴った枕草子の存在は、道長にとっては厄介な存在だったのではないだろうか。
ゆえに清少納言は道長に対する批判なども書いていない。政治的なことにも全く触れない。権力者 道長によって枕草子が葬り去られないように意図して書いていたようにも思われる。
清少納言は道長の逆鱗に触れぬよう配慮しながらも、定子の栄光を後世に伝えようとしていたのかもしれない。
だからこそ、枕草子に登場する定子はどんな時でも笑顔を絶やさず、気品を失わず、高貴な態度を崩さないのだ。
過去に縋るなんて情けない、虚構を伝えようとするなんてカッコ悪い、そんな意見もあるかもしれない。
しかし、枕草子はその情けなさを微塵も見せない。
清少納言の揺らぐことのない定子への忠誠、そして時流に翻弄された定子への憐憫が、彼女たちの輝かしい過去を蘇らせる。
そして笑顔に包まれた定子サロンこそ理想の後宮であると、当時の貴族たちが想いを募らせたことは紫式部日記に詳しい。
さらには1000年の時を超え、清少納言の想いは令和の時代にまで伝播する。
定子の栄光は枕草子を通じ今なお語り継がれる。そしてこれからも語り継がれる。
まさに藤原道長に一矢報いた文学と言えるのはないだろうか。
清少納言の溢れる想い
枕草子には楽しい章段がたくさんある。
清少納言と定子の初めての邂逅を綴った「宮にはじめてまいりたるころ」は、宮仕えに緊張する初々しい清少納言の姿が見られる非常に興味深く稀有な内容である。
また、「五月の御精進のほど」は、清少納言たちの笑い声が聞こえて来るかのような、底抜けに明るい作風でありながら、和歌を巡る清少納言の心情が語られるこれまた興味深い内容と言えよう。
このような優れた散文群の中でも、ここでは「三条の宮におはしますころ」を強く推したい。
この段は、定子とその子供たちの一家団らんが描かれる短い章段である。
しかし、「三条の宮におはしますころ」は、枕草子の中で生前の定子の姿が確認できる最後の章段であり、清少納言はこの章段に強烈なメッセージを込めた。
まず、この章段は「三条の宮におはしますころ~」という書き出しで始まるが、この短い一文には清少納言のプライドが見え隠れする。
当時、定子が滞在していたのは平生昌(たいらのなりまさ)という一貴族の邸宅であったが、清少納言はこの邸宅を「三条の宮」と表現している。
つまり、「定子がいる以上、どこであれ『宮』である」という強い意思が読み取れる。
そしてもうひとつ。
この段は、定子の娘と息子が登場する枕草子中唯一の章段となる。
300段を超える章段の中で、定子の子供たちがこの段にしか登場しないのには大きな意味がある。
定子の子供たち、特に息子は後の天皇候補となり得る存在で、政敵 藤原道長にとっては脅威である。その子供たちを枕草子に多く登場させては、道長により危険視される可能性も強くなる。
ゆえに、清少納言はあえて子供たちを書いていないのではないだろうか。
しかし、生前の定子の様子を記した最後の章段では、清少納言の抑えきれぬ想いが零れた。
定子の血を受け継ぐ子供たち、未来の象徴である子供たち、そんな母子の幸せな様子をせめて定子最後の姿を留めるこの章段にだけは書いておきたかった。
ゆえに、この段にだけ定子の子供たちが登場し、その暖かな母子の姿が描かれたのではと思わずにはいられない。
虚構の美学
栄華を極めたことの雅さを決して忘れず、零落してもなお気高さを失わなかった藤原定子と清少納言ら女房たち。
暗い中でも笑いに包まれた定子サロン。
枕草子のページを捲る度、彼女たちの笑い声が読む者の耳にこだまする。
令和の時代にも定子たちの笑い声が聞こえてくる。
1000年の時を経ても、清少納言のメッセージは確実に届いているのだ。
例えそれが虚構だと言われても、かつての栄光に縋った哀れな笑顔だったとしても、そこには徹底した虚構の美学がある。
清少納言にとっては定子とともに歩んだ日々と、定子の笑顔こそが後世に伝えるべき真実だったのだ。
清少納言は定子が登場する最後の章段「三条の宮におはしますころ」をこう結んでいる。
いと、めでたし






