源倫子は藤原道長の正妻として知られる人物です。
しかしながら、「藤原道長の妻である」ということ以外は、あまり知られていないようにも感じます。
実は、源倫子のエピソードを紐解いていくと、彼女が非常に魅力的な女性だったことがわかるのです。
この記事では、そんな源倫子の人物像や性格がわかる逸話をご紹介します。藤原道長との夫婦仲や、紫式部との興味深いエピソードなどもお伝えしますので、ぜひご覧になってみてください。
源倫子のプロフィールの家系図
生没年:康保元年(964年)~天喜元年(1053年)
享年:(数え年で)90歳
倫子は、源雅信と穆子の娘です。24歳の時に藤原道長の正室となって以降、2男4女をもうけました。
四女の嬉子を産んだのは44歳の時です。当時の40代と言えば老人扱いされてもおかしくないような年齢でした。
しかも、44歳での出産は現代でも高齢出産と言えますから、当時としてはかなり健康的で体力のある女性だったのかもしれません。
さらに、当時としては驚異の90歳まで生きたことも特筆すべき部分でしょう。平均寿命が今よりずっとずっと短かった平安時代中期に90歳まで生きた人物はなかなかいません。
こういった点からも、倫子は元気溌剌とした人物だったと感じられます。
なお、倫子の母 穆子は86歳で亡くなり、娘の彰子は87歳で亡くなっています。
穆子→86歳
倫子→90歳
彰子→87歳
倫子は親子3代で非常に長寿だったのです。
源倫子の容姿
倫子は肖像画などが残っていないので、どんな見た目をしていたのかわかりません。が、「栄花物語」という作品の中で倫子に雰囲気について触れている箇所があります。
栄花物語によると倫子は、小柄でふっくらした美しい女性だったそうです。また、髪の毛がとても長くて美しくかったと記されています。
平安時代の女性と言えば長い黒髪を想像しますが、倫子もその例に漏れず長い黒髪を有していたんですね。
なお、倫子の娘たち4人の驚異的な髪の長さを紹介した記事もありますので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。
ちなみに栄花物語には、45歳の時の倫子が20歳前後の見た目をしていたと書かれているのですが、ちょっと盛っている気がします・・・。
藤原道長との夫婦仲
次に藤原道長との関係性を見ていきましょう。道長&倫子の夫婦仲を偲ばせる逸話がいくつかあるのでご紹介していきます。
高嶺の花だった源倫子
藤原道長というと「摂関政治を行った権力者」というイメージが先行しがちですが、そんな藤原道長から見ても、倫子は高嶺の花でした。
実は、源倫子は第59代宇多天皇の曾孫にあたるため、元から藤原氏より身分が高かったうえに、倫子は源雅信の長女だったのに対し、藤原道長は父 兼家の五男坊でした。
さらに結婚当時の年齢は、倫子が24歳で道長が22歳。倫子が2つ年上です。
このような状況だったので、倫子の父 雅信は藤原道長との結婚に乗り気ではなかったのですが、母の穆子が道長を気に入っており、その後押しを得て無事に結婚に至ったのです。
「栄花物語」によると、藤原道長の父 兼家はこの結婚にたいそう恐縮していたと言います。
現在でも「玉の輿」という言葉がありますが、藤原道長は「逆玉の輿」状態だったと言えるのです。
藤原道長と行動を共にしまくる源倫子
藤原道長は「御堂関白記」という日記を残しているのですが、その御堂関白記にも倫子はたくさん登場します。
御堂関白記によると、藤原道長は倫子と行動をともにしていることが多く、天皇のお住まい(内裏)によく一緒に行っていたり、お寺にお参りにいっていたり、宇治に遊びに行ったりしています。
毎日一緒に行動しているのではないかと思われるほどで、御堂関白記への倫子の登場回数は300回を超えているそうです(明石書店:藤原道長を創った女たちより)。
2男4女を授かっていることなども含め、道長&倫子夫妻は仲睦まじい関係でもあると同時に、天皇の住まいである内裏へも一緒に行っていることから、藤原道長にとっては仕事上でも頼れるパートナーだったのでしょう。
源倫子と子供たち
前述の通り、倫子の子供は2男4女。男子は頼通と教通、女子は彰子、妍子、威子、嬉子の計6人です。
そんな子供たちと倫子のエピソードをいくつか紐解いてみましょう。
長男の頼通が24歳の時には小さな子供を抱くように看病をしたり、四女の嬉子に先立たれてしまった際には悲しみのあまり取り乱し、遺体を抱きしめて悲しんだと伝わっています。
倫子が90歳という長寿だったことはすでにお伝えしましたが、倫子は存命中に彰子を除く3名の娘(妍子、威子、嬉子)に先立たれており、3名とも倫子の邸宅で亡くなっています。
これは、倫子自身が懸命な看病に当たっていたからではないかとも考えられています。
以上のようなエピソードから、我が子に深い愛情も持ってた優しい母親としての姿が想像できますね。
紫式部とのエピソード
最後に紫式部との逸話もご紹介します。
家系図でも示した通り、紫式部は倫子の娘の彰子に仕えていた女房です。なので、倫子と直接的な主従関係はありませんが、紫式部の書いた日記(紫式部日記)に興味深いエピソードが記されていますので、現代の言葉に置き換えてお伝えします。
9月9日 重陽の節供
紫式部の元に、倫子から贈り物が届きました。その贈り物は、菊の花の上に綿を一晩置いて露を含ませたもの。これは、現代で言うところの化粧水のようなものです。
この贈り物には倫子からのメッセージも添えられています。
倫子この綿で顔をふいて、すっきりと老化を拭き取りなさい
つまり、この化粧水を使ってエイジングケアをしなさいということです。
この贈り物とメッセージを見た紫式部は、早速返事をしたためました。
紫式部この菊の露はお返しします。倫子様こそ1000年も若返ってくださいませ
ところが、返事を書き終えた頃には倫子様からの使者は帰ってしまい、結局お返事はできず終いでした・・・。
倫子の真意
このエピソードの段階で倫子は45歳、紫式部は生年がはっきりしていないのですが、おおよそ35代半ば~後半くらいと思われるので、お肌のケアが必要な年ごろではあったのでしょう。
ですが、倫子のメッセージは年を重ねた紫式部に対する嫌みのようにも受け取れますし、紫式部の返事もそれに反撃しているような構図になっています。
このやりとりの真意については諸説あるのですが、一説には「紫式部が藤原道長の愛人だったため、倫子が紫式部に嫌がらせの贈り物をしたのではないか?」とも言われています。
つまり、
あなたも、もう若くないんですよ
倫子様の方がずっと年増ですよ
という感じですね。
とは言え、この説も憶測でしかありませし、そもそも「紫式部が藤原道長の愛人だった」ということ自体が本当かどうかよくわかっていません。
倫子と紫式部は「またいとこ」の関係でもあり、歳を重ねた紫式部に対する倫子の純粋な優しさだったとも言われていますし、2人が親しい関係だったからこそ、冗談としてこのようなやりとりが可能だったのでは?とも考えられています。
今となっては真意は闇の中ですが、倫子と紫式部の関係をいろいろと想像させる興味深いエピソードと言えるのではないでしょうか?
源倫子まとめ
以上、源倫子の人物像やエピソードでした。
藤原道長と言う権力者の妻だけあって、高慢な性格の女性をイメージしてしまいがちですが、実際は権力者の妻としてその政治を支え、一方では我が子に深い愛情を示す良妻賢母と言える女性だったのです。
90年という長い人生は、極めて充実したものだった気がしてなりません。
源倫子は藤原道長を支え続けた魅力的な女性だったと言えるのではないでしょうか。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考にした主な書籍】