紫式部日記の内容やあらすじ解説!清少納言について書かれた面白日記

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清少納言と紫式部

紫式部と言えば源氏物語が代表作ですが、もう一つ、自身の日記を残しています。

その日記を『紫式部日記』と言います。

 

実は、この日記の存在により、源氏物語の作者が紫式部であることが分かったりします。そんな紫式部日記には一体どんな内容が書いてあるのでしょうか?

紫式部の性格が垣間見える『紫式部日記』の中身を簡単に解説していきます。

 

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紫式部日記の内容

紫式部日記の魅力や見所などを音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。

 

彰子の出産記録から始まる紫式部日記

紫式部日記に書かれた内容は多岐に渡ります。

その一部が彰子(しょうし)」という女性の出産記録と、その後のお祝い事について書かれたものです。

 

紫式部
紫式部

私の日記は、彰子様の出産を間近に控えた何気ない1日から始まり、出産時の慌ただしい情景、そして出産を終えた彰子周辺の宮廷での出来事について書かれています。

 

彰子とは、紫式部が仕えていた女性で一条天皇の中宮(お后様)で、摂関政治で有名な『藤原道長』の娘でもあります。

このような関係上、紫式部日記は道長の要請によって書かれたものではないかとも言われています。

 

彰子は時の権力者『藤原道長』の娘で、天皇のお后様です。

彰子が天皇の子供を産み、その子が天皇になれば藤原道長は天皇の祖父(外祖父)になり権力が手に入ります。

なので、道長としては彰子の出産は一大事であり、記録に残しておきたかったとも考えられるでしょう。

 

そこで、『源氏物語を書いた実績のある紫式部に彰子周辺の記録を書かせた』といった政治的意図もあったのかもしれません。

そもそも、紫式部が宮仕えを始めた理由も、源氏物語を書いていた紫式部に藤原道長が目を付けたからでした。

 

日記によると、彰子の出産はかなり難産だったようで、悲嘆に暮れる女房たちや、祈祷を行う僧侶たちの物々しい読経が絶えず行われている様子が綴られています。

この当時は医学が発達していないので、出産は母子ともにとてもリスクを伴うものでした。

 

なので、とても重苦しい空気に包まれていましたが、彰子が無事に出産を終えた時には女房たちが安堵し、泣き崩れていたらしく、みんな化粧(白粉)が剥げて酷い顔になっていたそうです。

 

また、彰子の父である藤原道長は、初孫の誕生に相当な喜びようだったと書かれています。

 

彰子後宮の雰囲気

紫式部日記が道長の要請で書き始めた日記であることを考えると、紫式部日記の主題は彰子の出産記録です。

実際に、紙幅も多く割かれています。

 

なんですが、途中から紫式部周辺の様々な案件に対する個人的な評論ような内容にシフトしていきます。

つまり、出産とは関係ないことが書かれるようになっていきます。

 

この評論部分は『消息文』と呼ばれ紫式部日記の特徴でもあり、一番面白い部分でもあります。

一般的に紫式部日記と言えば、消息文の方が有名です。

 

消息文は紫式部の個人的な感情も含まれていると思われ、あまり公にできない内容になっています。

なので紫式部日記は公的な日記なのか私的な日記なのか判断しかねるのもまた事実であり、そこが面白みでもあるのです。

 

また、彰子に仕える女房たちが消極的なため、雰囲気が良くないと言ったようなことも書いてあります。

他にも、宮廷に泥棒が侵入してきたときの話や、親友の『小少将の君』との間柄についても書かれています。

 

清少納言をこき下ろした才女批判

前述の消息文で最も有名な部分が、いわゆる『才女批判』と呼ばれる部分です。

多くの同僚女房の雰囲気や容姿について言及しているのですが、その中でも『和泉式部』『赤染衛門』『清少納言』の3名については特に詳しく書かれています。

 

要約すると以下のようなことが書かれています。

紫式部
紫式部

和泉式部さんの和歌は素人っぽいけど、情熱的な歌風、そして言葉の閃きは素晴らしいですね。でも、彼女の男癖の悪さには感心しません。

 

紫式部
紫式部

赤染衛門さんの和歌は落ち着いた歌風です。夫の出世のために、宮廷内で夫の宣伝ばかりしていおり、また、おしどり夫婦でもあったので、夫の名前を取って『匡衡衛門(まさひらえもん)』というあだ名で呼ばれていました。

 

そして、清少納言については特に辛辣な内容が書かれています。ここが紫式部日記で最も有名な部分ではないでしょうか。

 

紫式部
紫式部

清少納言さんは、いつも得意顔でとんでもない人だったようですね。

利口ぶって漢字を書き散らしていますが、その知識はまだまだ未熟で足りないことばかりです。

彼女のように、好んで人と違うことを望む人は、最初は面白がられてもやがて飽きられ、その行く末は異様なものになることでしょう。

風流を気取る人は、周囲と違っていようとするあまり、大したことでもないのに感動したり『素敵』と思ったりするので、そんなことをしている内に、一般的な感覚とかけ離れてしまい、自然と的外れで中身のない人間になってしまいます。

そんな中身の無くなってしまった人の成れの果ては、決して良いものにはならないでしょう・・・。

 

 

こんな感じで、相当辛辣な言葉を浴びせています。ただし、この清少納言評には注意したいことがあります。

 

和泉式部と赤染衛門は、紫式部と同僚の関係でしたが、清少納言と紫式部は宮廷出仕の時期が微妙にズレており、直接の面識は無かったとされています

ゆえに紫式部が清少納言のことを悪く言う道理は無いはずなのですが、この清少納言評の背景には『枕草子』が強く影響しています。

 

明るく華やかな宮廷生活を枕草子に書き残した清少納言。そんな清少納言が宮廷を去った後に、宮仕えを始めた紫式部にとって、清少納言は越えなければならない高い壁だったのです。

その辺の詳細は、コチラの記事で詳しく解説しています。

紫式部と清少納言は仲が悪い?紫式部日記の清少納言評と二人の関係
紫式部日記には、紫式部の清少納言に対する辛辣な評価が記されています。紫式部にとって清少納言の存在はどう見えていたのか?清少納言とはどのような存在であったのか?をわかりやすく解説します。

 

紫式部日記の成立時期と執筆期間

続いて紫式部日記の成立に関する内容をまとめた図表をご覧ください。

紫式部日記が完成したタイミングは明確にはわかっていません。

一般的には、源氏物語を書き終えてから紫式部日記をまとめたと見られており、おおよそ寛弘7年(1010年)の夏から秋にかけてまとめ上げたと考えられています。

 

紫式部日記によると、寛弘5年(1008年)に宮中で源氏物語の製本作業が行われたと思われる記述があり、この段階で源氏物語は完成に近い状態だったと推測できます。

その後に源氏物語のラスト(宇治十帖)を書き終え、寛弘7年(1010年)の6月中旬に源氏物語全編の執筆が完了し、間もなく紫式部日記の編集を開始したと見られています。

 

なので、紫式部日記の成立時期は『寛弘7年(1010年)7月』と考えられているのです。

なお、旧暦の7月なので現在の7月とは違い、おおよそ夏の終わり~初秋にかけての季節となります。

 

このように、紫式部日記はわずか1ヶ月たらずでまとめ上げたのですが、短期間に全てを書いたわけではなく、以前から書きためたものがあったのではないかと推定されているのです。

 

ちなみに、寛弘5年(1008)の出来事には大きく紙幅が割かれていて、寛弘6年(1009年)についてはあまり書かれていません。(寛弘7年(1010年)も少ないですが、この年の1月15日で日記が終わっているので寛弘7年が少ないのは仕方ない)

 

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紫式部の内容や執筆時期まとめ

以上、紫式部日記の成立時期や背景でした。

まとめると・・・

【紫式部日記の内容】

・彰子の出産記録
・彰子後宮の空気感
・紫式部の個人的な意見を書いた消息文(有名な清少納言批判も含む)

 

【成立時期と執筆期間】

・紫式部日記の成立時期は『寛弘7年(1010年)の旧暦7月頃』。
・以前から書きためていたと思われる日記を1ヶ月弱でまとめた。
・書かれている内容は、寛弘5年(1008年)秋~寛弘7年(1010年)の1月15日までの出来事+消息文。
・執筆の背景には政治的意図と、紫式部の個人的な感情の両方が含まている可能性がある。

となります。

 

紫式部日記からは紫式部の人間味が感じられ、源氏物語とはまた一味違った面白さがあります。特に消息文での清少納言への痛烈批判は見所ですのでぜひ一度ご覧になってみてください。

 

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源氏物語では知り得ない紫式部の内面を知りたい方には『紫式部日記は』とてもオススメですよ。