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『信長は武将じゃなくて革命家』拓麻呂です。
『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』
織田信長の性格を表す言葉として、有名な一句です。
後世に伝わる信長のイメージと言えば『残忍』『魔王』など、恐ろしい人物像を連想する方も多いのではないでしょうか?
今回は、そんな信長の性格、そしてその性格から見えてくる彼の革新性と限界点に迫ってみたいと思います。
第六天魔王 織田信長
織田信長の性格
では早速、信長の性格を見ていきましょう。
結論から言いますと、彼の性格は、
後世に伝わっている通り
です。
信長は、残忍な男です。
まさに魔王です。
残虐エピソードには事欠かない信長の逸話をいくつか確認してみましょう。
髑髏の杯
1574年
信長は当時敵対していた『浅井家』と『朝倉家』を滅ぼします。
その後、勝利の宴が催されますが、そこに漆塗りになされ金粉をかけたドクロが運ばれてきました。
この金色のドクロは浅井家当主『浅井長政(あざいながまさ)』と朝倉家当主『朝倉義景(あさくらよしかげ)』の頭蓋骨でした。
この記述は『信長公記(しんちょうこうき)』と言われる史料に記述がある為、信長の残虐性を物語る貴重なエピソードと言えます。
一説にはこのドクロを杯代わりにして一杯やろうとしていたとも言われています。
比叡山焼き討ち
信長の恐ろしさを物語る事実として、最も有名なエピソードが比叡山焼き討ちではないでしょうか。
比叡山とは、現在でも天台宗の総本山として現存している『比叡山延暦寺』です。
信長の生涯は寺社勢力との争いに明け暮れたと言っても過言ではありません。
周辺諸国の戦国大名とも争っていますが、彼の覇業に最も立ちはだかったのは一向一揆などの寺社勢力なのです。(この辺の理由は本筋から逸れますので割愛します)
この時、信長は女、子供に至るまで、無差別に襲撃し比叡山を焼き払ったと伝わっています。
信長に従わなかった一揆勢力は比叡山に限らず、徹底的に弾圧されました。
信長の革新性
ほんの一例ですが、信長の性格は我々のイメージ通り、かなり残虐だったことが分かります。
当時の目から見ても、かなりぶっ飛んだことをやっていたのは間違いないでしょう。
しかし、ぶっ飛んだ性格だからこそ、信長でなければ考えられなかった発想があります。
天下布武です。
天下布武とは武力による日本の統一。
戦国時代とは、中央政権である室町幕府の衰退により、日本が無政府状態になってしまった時代です。
そんな中で全国の大名たちが、自分の治める領地にオリジナルの法律を定めました。
これを『分国法』と言います。
つまり、戦国時代とは『日本』という『国』の概念が薄れ、それぞれの大名が治める領域が『国』として認識されていたことになります。
そのような時代背景の中で『天下布武』を掲げ、『日本』をひとつの『国』としてまとめあげようとしたのが織田信長です。
ここに信長の革新性があります。
信長は当時の常識に囚われることなく、先進的な発想で『日本』を『国』として見据えていました。
その革新性の先にあるのが、教科書にも出てくる『楽市楽座』であり『関所撤廃』でもあるのです。
常人では考えられない残虐な面がありつつも、その一方で当時の常識を逸した先進性も持ち合わせていたのが『織田信長』という男なのです。
織田信長が他の大名と激突していたら?
このように高い革新性を発揮していた信長ですが、当時の強力な大名と激突していたら、どちらが勝っていたのでしょうか?
いきなりですが、この疑問も『信長の革新性』から導くことができます。
という事で、今回は信長が
①武田信玄
②毛利元就
あたりの超大物と直接対決していたら、どっちが勝ったのか?僕なりの見解をお伝えしてみようと思います。
ちなみに、信玄も元就も存命中には信長と戦っていません。
なお、今回は当時の政治状況などは加味せず、あくまで『織田信長』と『武田信玄』『毛利元就』それぞれ個人の能力や性格から勝敗を導き出していきます。
織田信長vs武田信玄
まずは武田信玄。
結論から言います。
信玄の圧勝です。
戦国大名という存在は、政治家であり『軍人』です。
武田信玄は風林火山に代表される『孫子の兵法』を極めた軍略の名人です。
一方の信長は政治家ではありましたが軍人ではありません。
彼は軍人と言うよりは『革命家』です。
単純な戦略、戦術という観点から見ると『革命家』信長は『軍略家』信玄には敵いません。
同じ理由で、上杉謙信と戦っていた場合も同様です。
『革命家』信長は、同時代の大名たちとは戦っている土俵が違うのです。
織田信長vs毛利元就
続いては、中国地方の覇者『毛利元就』
結論から言います。
元就の勝ちです。
理由は武田信玄とだいたい同じですが、元就には恐ろしき謀略があります。
元就も政治家であり軍人ですが、彼は『謀略家』としての側面が強いです。
もちろん信長にも『謀略家』としての側面はありますが、元就はその比ではありません。
また、元就が拡大した領土は、戦国時代でも屈指の広大さを誇ります。
信長や信玄も、領土は拡大していますが、父の代から一国くらいの領土は持っていました。
その点、元就は一国にも満たない小さな豪族から出発しています。
戦国大名と言う観点で見た場合、元就はスケールが違いすぎます。
ただ・・・
元就は遺言で『毛利の領土を守る事を第一と考えよ』と言っているので、結局は彼も当時の常識からは逸脱していません。
もしかしたら、信長と元就が激突するような事態になっていたら、元就が争いを避けたかもしれません。
本能寺に散った信長の限界
残虐性と革新性をもった信長ですが、その最後はあっけないものでした。
1582年 本能寺の変
明智光秀の裏切りによって、その覇業は絶たれました。
享年49
『日本』をひとつの『国』としてまとめあげようと『天下布武』を掲げ、天下統一を志した夢はここに潰えました。
しかし、僕はこれが信長の限界だったのではないかと考えています。
結果的には明智光秀の裏切りでこの世を去った信長ですが、その前から結構裏切りにあっています。
荒木村重しかり、別所長治しかり・・。
彼の時代にそぐわない、ぶっ飛んだ発想が裏目に出始めていたのです。
革命家であった彼は、見方よっては異端児でしかありません。
人間は、自身の生きてきた時代背景や常識、価値観の範囲内で善悪を判断し行動するものです。
当時の常識や価値観から外れた信長の発想は、明確な形となる前に『常識』という価値観の前に潰えたのです。
信長が唯一見通せなかったもの
革命家であった信長は、当時の人々にとって思いもよらない未来を見ていました。
生まれ持った先進性で、日本を作り上げようとしていた信長。
しかし、そんな信長に唯一見えていなかったものがあります。
人の心です。
やはり信長の残虐性は、それなりの反発を招くものであったことは間違いありません。
その結果が本能寺の変です。
明智光秀の心を無視した信長のやり方は、『恨み』という形で自身に返ってきました。
いつの時代も『人の心』を無視したやり方という物は、必ず破綻します。
自分の夢、目標、決して一人の力では成し遂げることはできません。絶対に人の助けが必要です。
そして、そこには必ず『人の心』が存在しています。
つまり信長に足りなかったものは
思いやりです。
これが革命家 織田信長に唯一足りなかったものです。
人間五十年
唯一『人の心』だけが見通せなかった織田信長。
世界に誇る天才革命家の失敗は、今なお『おもいやり』の大切さを示す教訓として、現代人に語りかけているのです。
もしも本能寺の変が無かったら・・・
最後に少しだけ『もしも本能寺の変が起こらなかったら』どうなっていたか考察してみましょう。
49歳という年齢や、塩辛いものが好みだったという事実を除けば、信長は天下統一を成し遂げていたことと思います。
ただ、その後、信長が天下を維持できたかといわれると少し疑問です。
結局は、第二の明智光秀が現れていたんじゃないかな・・・。
まぁ、信長がもっと長く生きていれば、日本の近代化はもっと早く進んでいたかもしれませんね。
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。