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拓麻呂です。
西郷隆盛の弟に『西郷吉二郎』(西郷隆広)という人物がいます。
西郷家の次男坊である吉二郎。
その最後は、兄の西郷隆盛に勝るとも劣らない壮絶なものでした。
今回は西郷吉二郎の最後と、残された家族たちに迫ってみたいと思います。
玉砕!西郷吉二郎
吉二郎 戦場に散る
吉二郎は隆盛の5歳下の弟です。
兄の隆盛は、活躍の舞台を京都や江戸に移していたため、西郷家を支えていたのは、実質的に吉二郎です。
自ら農作業にも精を出し、隆盛が流罪になった時も衣服を送ったりしています。
兄が家にいない時が多かった分、吉二郎は西郷家の屋台骨として家を守っていました。
やがて、兄 隆盛の活躍で徳川幕府は倒れ、明治新政府が樹立されます。
その後、明治新政府と旧幕府軍が激突した『戊辰戦争』が勃発。
この戊辰戦争の中に『北越戦争』と呼ばれる戦いがあり、吉二郎は明治新政府軍として、この戦いに参戦しています。
北越戦争で新政府軍は苦戦しており、西郷隆盛は西郷家三男坊の従道(つぐみち)を伴い、援軍に向かいました。
しかし、その道中に隆盛と従道は驚愕の事実を知ることになります。
西郷吉二郎が腰に銃弾を受け、病院で息を引き取ったと・・。
隆盛はこの知らせを受け、大いに悲しみました。
戦線への合流は目前に迫っていながらも、一歩間に合いませんでした。
吉二郎の戦いぶりは、勇猛果敢であったと伝わっています。
隆盛はこの報を受け、しばらくは食事やアルコールを断ち、喪に服していたと言われています。
この時の隆盛は、丸まって寝転がってばかりいたそうです。
きっと、吉二郎のことに責任を感じ、大きなショックを受けていたと思われます。
残された家族たち
しかし、悲劇はこれで終わりません。
隆盛は、吉二郎の妻から戦場に到着したら、夫の様子を伝えて欲しいとたのまれていました。
隆盛は、吉二郎の悲劇を手紙にしたためました。
この時、吉二郎の妻はお腹に子供を宿していましたが、隆盛からの手紙を受け、ショックのあまり、突然産気づき、子供を出産。
この主産が原因で、吉二郎の妻もこの世を去りました。
隆盛は戦争の後に、吉二郎夫妻の子供を引き取り、西郷家に仕えていた熊吉が大切に育てたと伝わっています。
吉二郎が及ぼした兄への影響
吉二郎の戦死は、隆盛に相当な衝撃を与えました。
家長である自分が家にいられないが為に、吉二郎は西郷家を盛り立て、兄に代わって家族を支え続けました。
その吉二郎を失い、さらには吉二郎の妻までも後を追うように旅立ってしまったことは、隆盛に相当なダメージを与えたと思われます。
事実、この後から隆盛には目立った活躍が見られなくなり、やがて西南戦争で薩摩軍の大将に担がれ悲劇的な最期を迎えます。
西南戦争で隆盛が薩摩軍を率いて、自らが作り上げた明治新政府に弓を引いたことは、幕末史の中でも、とりわけ大きな謎でもあります。
西郷隆盛の心に一体何があったのか?
武士の在り方を否定する新政府が、隆盛の理想とかけ離れたものであったことも理由の一つだと思いますが、やはり吉二郎を失ったことも少なからず影響しているように感じます。
隆盛は、戊辰戦争後から、あきらかにやる気をなくしている節があり、精彩を欠いています。
吉二郎を失い、そして悲願だった倒幕を果たした隆盛は、江戸や京都を駆け回っていたころの輝きを完全に失ってしまったのです。
西郷吉二郎という男の存在は、隆盛にとってはそれほど大切な存在だったのだと思います。
兄から弟へのメッセージ
家を留守にすることの多かった隆盛は、後年、亡き吉二郎に対してこんな言葉を送っています。
隆盛が、いかに吉二郎を信頼していたかを物語る言葉です。
吉二郎が居なければ、自分は倒幕を成し遂げることなど到底できなかった。
そんな意味が込められた兄から弟へのメッセージです。
自分が国家のために、聊かご奉公ができたのは、吉二郎が自分に代わって兄たる責務を果たしてくれたからの事で、自分は年齢の上からの兄で、実際の兄は吉二郎だ
そんな西郷隆盛や明治維新のことをもっと知りたい方はコチラをご覧ください。


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