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拓麻呂です。
西郷隆盛の弟にして隠れた英傑。
西郷従道(さいごう つぐみち)
兄である西郷隆盛のインパクトが強烈過ぎる為、あまり注目されない従道ですが、実は西南戦争で西郷さんが散った後の活躍には、目を見張るものがあるのです。
今回は、そんな西郷従道について、主に西南戦争で兄 西郷隆盛がこの世を去った後の活躍に迫ってみましょう。
隠れた英傑!西郷従道
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
西南戦争では何をしていたのか?
西郷隆盛を慕う、多くの薩摩藩地が戦場の露と消えた西南戦争。
この戦いの時、従道は何をしていたのでしょうか?
普通に考えれば、兄の西郷さんに従って薩摩軍の一員として戦っていそうですが、実はそうではありません。
西郷従道は大久保利通の明治新政府軍の側にいました。
とは言え、戦線に参加して隆盛とドンパチやっていた訳ではなく、新政府の多くの人間が出兵してしまった為、留守番をしていました。
西郷隆盛の弟ですがら、敵対する隆盛の刃を交えるのは酷だと新政府が判断したのか、はたまた戦場で兄弟の情が芽生え裏切るんじゃないかと警戒されたのかは定かではありませんが、何しろ東京で留守番していました。
西南戦争で明治新政府軍が勝利し、西郷隆盛がこの世を去ります。
そして、大久保利通も凶刃に倒れます。
薩摩の双璧が亡くなったことで、いよいよ従道にもスポットライトが当たるようになってきます。
日露戦争での人事
西南戦争後の従道の活躍と言えば、やはり日露戦争でしょう。
日本海海戦とは、東郷平八郎の奇策、いわゆる『東郷ターン』で、世界にその名が轟くロシアのバルチック艦隊を撃破して、日本が勝利した戦争です。
従道は初代海軍大臣(海軍の最高責任者)に就任しており、従道の人事により、ある大物が日本海軍の中心的人物として見出されています。
山本権兵衛(やまもと ごんべえ)です。
従道は、山本権兵衛のやり方に異を唱えることもなく、山本ら部下たちの自由な采配に任せていたと言われています。
『責任は全て自分が背負うから、部下たちの好きにやったらいい!』
こういった考えの元、山本権兵衛を海軍の重役に就けた従道。
そして、山本権兵衛が見出した人物こそ、日本海海戦での大勝利を演出した『東郷平八郎』です。
山本権兵衛と東郷平八郎という傑物二人が当時の海軍で活躍出来た背景にあったのが西郷従道です。
従道が居なかったら、山本も東郷も後世にこれほど名を残すことが出来なかったかもしれません。
日露戦争の勝因が、山本と東郷だけという訳ではありません。
ですが、日本海海戦の勝利が無かったと考えると、二人の抜擢は勝利の原動力に大いに成り得たと、僕は考えています。
台湾出兵とは?
なお、西南戦争の3年くらい前に『台湾出兵』という出来事が起こっています。
これは、明治新政府による初めての海外出兵でもあります。
この時の従道は陸軍に属しており、台湾蕃地事務都督(要は派遣軍の総指揮者)なる役職に就き、台湾へ赴いています。
この時、従道は全軍を指揮しするなどの活躍を見せました。
西郷従道の本当の名前
最後に、西郷従道に関するエピソードをお伝えします。
実は、『従道』という名前は彼の本名ではありません。
本名は『隆興』と言います。
どうやら戸籍に名前を登録する際、『隆興』を口頭で『リュウコウ』と伝えたら、聞き手が間違えて『ジュウドウ』と聞き取ってしまい、『従道』という名前になったんだとか。
なので、『従道』は『ツグミチ』と読むよりは『ジュウドウ』が正しいという事になります。
しかしながら、従道はそのまま『従道』で通してしまった為、後世に伝わる名前は『西郷従道』になっています。
ちなみに従道の兄の西郷隆盛も本名は『隆永』と言います。
『隆盛』は父親の名前だったのですが、コチラも戸籍登録の際、役人が書き間違えて、父親と同じ『隆盛』という名前で登録されてしまいました。
ちなみち、西郷隆盛を『大西郷』、西郷従道を『小西郷』なんて言ったりもします。
器の大きい男
以上、西郷従道の活躍でした。
部下たちのやりたいようにやらせ、責任を自分が取るという姿勢、そして、名前を間違えられても気にせず、間違った名前のまま通してしまった事実。
従道って、細かいことは気にしない、物凄く器の大きい男だったのかなと感じます。
兄の隆盛ばかりが注目されがちですが、従道もまた、とっても魅力的な人物であったと言えるのではないでしょうか。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。