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拓麻呂です。
幕末に日本の一地方である薩摩藩が、世界に誇る大国 大英帝国(イギリス)と激突するという、前代未聞の戦争が起こりました。
『薩英戦争』(さつえいせんそう)です。
なぜ薩摩藩は、イギリス一戦交えることになってしまったのか?
今回は、そんな薩英戦争のきっかけや結果、そして戦後の賠償金などから、薩英戦争の勝敗を見ていきたいと思います。
奇跡の大勝利!?薩英戦争!
出典:Wikipediaより
薩英戦争に至る経緯
ではまず、薩英戦争に至るきっかけを見ていきましょう。
薩英戦争に至る一番のキッカケは『生麦事件』という騒動です。
薩摩藩の実験を握っていた『島津久光』の行列が江戸から京都に向かう途中で、イギリス商人4名と鉢合わせます。
しかし、イギリス商人は馬に乗ったまま久光の行列を横切った為、無礼討ちにされてしまいました。
↓生麦事件の詳細はコチラ↓
これが多きな国際問題に発展したことで、薩摩はイギリスを敵に回すことになります。
イギリス側は、斬り付けた本人の処刑と賠償金の要求をしますが、薩摩との交渉は難航。
しびれを切らしたイギリスは、賠償金の代わりとして、薩摩が所有する蒸気船を拿捕。
これに反抗した薩摩は、イギリスと一戦交えることを決意します。
薩英戦争の始まりです。
激突!!薩摩vs大英帝国
薩摩藩はイギリス艦隊に向かって砲撃を開始します。
しかし、薩摩藩の大砲は旧式で、イギリス艦隊が搭載するのは西洋技術を駆使した最新兵器。
イギリスは薩摩藩の砲撃に応戦を始めます。
イギリスの最新兵器の前に、薩摩藩の城下町の1割が壊滅。
先代薩摩藩主 島津斉彬が西洋技術を研究していた工場施設『集成館』も焼け落ちました。
この砲撃による薩摩の犠牲者は5名(諸説あり)、負傷者は十数名にのぼりました。
ですが・・・
薩摩藩の戦果は驚くべきものでした。
薩摩藩の砲撃により、イギリス艦隊の艦長と副館長を含め13名が犠牲になり、50名の負傷者を出しました。
戦力でも兵器の性能でも圧倒的に劣る薩摩藩が、まさかの大戦果をあげました。
弾薬などが尽きたイギリス艦隊は一時撤退。
薩摩藩は危機を乗り切ることに成功しました。
賠償金を踏み倒した薩摩藩
多くの砲台が破壊され、焼け野原になった薩摩の城下町。
何とかイギリスを追い返し、犠牲者も少数で済んだ薩摩でしたが、イギリスの軍事力を目の当たりにし、西洋技術の凄まじさを知ることになりました。
城下町の砲台を破壊された薩摩には、戦闘を継続する力は残っていません。
もし、またイギリスが攻めてきたら、ひとたまりもない。
薩摩藩は和平交渉を模索し始めます。
四度に渡る交渉の末、生麦事件の犯人の処刑と多額の賠償金を条件に、和平が成立します。
しかし・・・
生麦事件の犯人は行方不明という理由を付け、うやむやにし、賠償金はいったん幕府が立て替えることとなりました。
が・・・結局、薩摩藩は幕府に立て替分の賠償金を返すこともありませんでした。
政治的には勝利した薩摩藩
このように城下町が焼け野原になり、戦闘を続けることも難しくなった薩摩からの和平交渉。
ここだけを見ると薩摩藩は明らかに敗者です。
と言うか、賠償金を請求されているということは、世界の常識からして薩摩の負けです。
ですが、犠牲者はイギリスが上回り、戦後の賠償金も結局薩摩は1円も支払っていません。
支払ったのは幕府です。
ついでに、生麦事件の犯人も、うやむやにしています。
薩英戦争の勝敗に関しては、様々な意見があると思います。
ですが、僕はこう思います。
常識からすれば薩摩の負けですが、政治的には薩摩の完全勝利です!
なおこの後、西洋の軍事力を目の当たりにした薩摩は、イギリスと提携し、西洋技術を積極的に学んでいくこととなります。
結局イギリスとくっついて、最新技術を取り入れることが出来た薩摩藩。
やっぱり、薩英戦争は薩摩藩の勝利でいいんじゃないでしょうか???
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。