島津斉彬が日本史に与えた影響!西郷隆盛と大久保利通を見出した英雄

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人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

『島津に暗君なし』

 

戦国島津氏から始まる歴代薩摩藩主たちを表現する言葉です。

 

多くの名君を輩出した薩摩藩。

その中でも特筆すべき人物。

 

それが『島津斉彬』です。

 

斉彬が幕末の日本に存在していなければ、明治維新という大革新は起こり得なかったかもしれません。

 

明治維新の大きな原動力となった西郷隆盛と大久保利通。

 

斉彬無くして、彼らの活躍はありえません。

 

今回は、西郷さんと大久保さんを育て上げた名君『島津斉彬』が、日本の歴史にもたらした大きな影響に迫ってみたいと思います。

 

 

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名君 島津斉彬

四十代で薩摩藩主に

名君と言われる斉彬ですが、薩摩藩主に就任したのは案外遅く、四十代を過ぎてからとなります。

 

その原因が斉彬の『蘭癖(らんぺき)』にあります。

要は西洋(オランダ)かぶれです。

 

斉彬の曾祖父に当たる『重豪(しげひで)』はたいへん開明的な人物で、蘭学に傾倒していました。

その結果、薩摩の文化水準は大きく上がりましたが、ひとつ大きな問題をもたらします。

 

西洋の文化を積極的に取り入れた結果、薩摩の財政を大きく圧迫し莫大な借金を背負い込むことになりました。

 

この財政難は『調所広郷(ずしょ ひろさと)』という人物の政策により、なんとか切り抜けます。

 

しかし、斉彬は曾祖父『重豪』から多大な影響を受けており、重豪同様、西洋文化に興味を示していました。

 

もし、斉彬が薩摩藩主に就任したら、先代の重豪時代と同様に、再び財政難に陥るのではないか?

 

そういった懸念から、当時の藩主である『斉興(なりおき)』は、斉彬に藩主の座を譲らずその座に居続けました。

 

その結果、薩摩藩を揺るがす大事件が勃発します。

それが西郷さんや大久保さんにも大きな影響を与えた『お由羅騒動』です。

 

↓お由羅騒動の記事はコチラ↓

島津斉彬vs島津久光!西郷隆盛に影響を与えたお由羅騒動を簡単解説
...

 

このお由羅騒動の結果、斉彬は晴れて島津藩主に就任することになります。

 

 

近代化を推し進める

ようやく薩摩藩主に就くことが出来た斉彬。

 

彼は、これまで胸に抱いてきた理想に向かって進み始めます。

 

近代化政策です。

 

蘭学という西洋文化に傾倒してた斉彬は、当然ながら開明的な近代化政策を推し進めて行く事になります。

 

その中でも最も注力したのが、軍事力の強化だと言われています。

 

幕末とは黒船に代表される、外国の脅威が日本に迫ってきた時代です。

そんな外圧を退ける為に、斉彬は薩摩の軍事力強化に邁進していきます。

 

その中でも代表的な政策が『反射炉』の建造です。

反射炉とは簡単に言うと、金属を精錬、溶解する為の炉です。

 

この反射炉は、鉄製の大砲を鋳造するためのものでした。

製造された大砲は、実際に城下町や沿岸に配備されたと言われています。

 

 

他にも斉彬が力を入れたのが『造船事業』です。

黒船の来航により、西洋技術の先進性に着目した斉彬は、洋式軍艦や蒸気船の建造にも着手していきます。

 

この時に建造された様式軍艦を『昇平丸』と言います。

 

 

この他にも、斉彬が着手した近代化政策は多岐に渡りました。

 

硫酸、塩酸、硝酸の製造、洋酒やパンの開発などなど・・。

これらの開発が行われた精錬所は『開物館(かいぶつかん)』と言われています。

 

また、ガラス工場、蒸気機関の製造所なども建設され、薩摩には大きな工場群が出現しました。

 

斉彬はこのような工場群一体を、『集成館』と名付けました。

 

これら斉彬が推し進めた近代化政策を総称して『集成館事業』と言います。

 

この『集成館事業』の遺構群は、現在世界遺産に登録され、鹿児島県を代表する観光名所となっています。

 

 

西郷さんと大久保さんを見出す

このように近代化政策に邁進していった斉彬。

そんな中でもうひとつ、斉彬が力を入れていた事があります。

 

それは『人材の登用』です。

 

斉彬は、優秀な若者を身分に捉われず、次々と登用していきます。

 

そんな中で斉彬の目に留まったのが西郷さんです。

 

振り返ってみると、過去のお由羅騒動において、西郷さんや大久保さんは斉彬擁立派に属していました。

元から斉彬の藩主就任を後押ししていた西郷さんにとっては、非常に喜ばしい出来事だったに違いありません。

 

藩の役人たちが多くの不正を働いていたことに疑問を持っていた西郷さんの意見書。

その意見書が斉彬の目に留まったことが、二人の出会いだったと言われています。

 

やがて西郷さんは斉彬の右腕となり、新しい日本を創造する為奔走していくこととなります。

 

 

斉彬の最後

1858年、薩摩の調練所で大砲の試し撃ちを視察していた斉彬。

 

突如として腹を下します。

 

それから約一週間後、容体が悪化した斉彬は、この世を去りました。

 

享年51

 

あまりにも突然の別れ。

これからますます近代化を進め、幕政にも進出しようとしていた最中の出来事でした。

 

斉彬逝去を知った西郷さんの悲しみは深く、殉死を決意するほどだったと言われています。

斉彬の死、そして安政の大獄で立場が危うくなった西郷さんは、月照と共に海に身を投げました。

 

何とか一命を取り留めた西郷さんでしたが、このような流れの中で流刑となり、歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 

この後、お由羅騒動で斉彬と対立した『島津久光』が実権を握ります。

 

そして、この久光に近づき、力を付けていったのが大久保利通です。

 

西郷さんが苦しい時に、前面に立って活躍し西郷さんの復帰を目指し活動していた男。

それが、西郷さんと同じ斉彬擁立派であった大久保さんなんです。

 

もし斉彬が藩主になっていなかったら、西郷さんや大久保さんが歴史に登場することは無かったかもしれません。

 

西郷さんの可能性を見出した斉彬、そして西郷さんが苦しい時は大久保さんが踏ん張る。

 

そんな幼馴染の二人が共に幕末の主役になり得た理由。

日本を大きく動かした明治維新。

それを実現した二人の英雄が歴史の表舞台に登場できた原点。

 

その原点こそが、島津斉彬の存在。

 

斉彬無くして、西郷さんと大久保さんという傑出した人物は誕生しなかったと言えるのではないでしょうか。

 

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斉彬を評した言葉

このように西洋列強に対抗する為、近代化を推し進め、優秀な人材を育成していった斉彬。

 

同時代の幕臣である勝海舟は、斉彬を評しこんな言葉を残しています。

 

薩摩藩はなぜ、幕末の主人公になり得たのか?

明治維新における薩摩藩の活躍の原動力はどこにあるのか?

 

その答えが勝海舟の言葉に集約されています。

 

『維新のおり、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである』

 

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。