藤原道長の権勢が絶頂の中、皇子を産んだ中宮定子。
そんな道長による中宮定子への嫌がらせ、そして清少納言が受けた大きな屈辱。
この記事では、そんな中宮定子と藤原道長の関係についてお伝えします。
定子の皇子出産
中宮定子は出産のため、職の御曹司(しきのみぞうし)という建物から、平生昌(たいらのなりまさ)という人物の邸宅へ移ります。
この時に、定子に対する藤原道長の嫌がらせとも思える行為が確認できるのですが、まずは定子出産の流れを見てみましょう。
中宮定子が生昌邸に移ったのは長保元年(999年)8月9日。
そして、同年11月7日に、定子は待望の皇子(敦康親王)を出産しました。
中宮定子に対する藤原道長の嫌がらせ
定子が生昌邸に移った時の状況は、藤原実資の「小右記(しょうゆうき)」や、藤原行成の「権記(ごんき)」、清少納言の「枕草子」などに記録されています。
これらの記録から、中宮定子に対する藤原道長の嫌がらせとも言える行為が確認できるのです。
結論から言ってしまうと、定子が生昌邸に移った8月9日に藤原道長は複数名の公卿を誘い、宇治への遊覧旅行を行っています。
この時、定子は出家していたため(詳細は長徳の変の記事をご参照ください)、中宮の立場を疑問視されてはいました。
とは言え、この段階では中宮であることに間違いはなく、中宮定子がお引越しするとなれば、大掛かりな準備が必要となるはずでした。
当然、準備を取り仕切る人物(上卿)がいなければなりません。
しかし、引っ越し当日の8月9日になっても上卿が決まらぬまま、中宮定子が生昌邸へ移ることになりました。
それな何故か?
実はこの時、藤原道長は一部の公卿を伴い、宇治への遊覧を実行していたことが「権記」に記されています。
つまり、中宮定子の引っ越しを邪魔するため、藤原道長がタイミングを合わせて一部の公卿を伴い遊びに出かけてしまったのです。
ゆえに、上卿がいない状態で、中宮定子は生昌邸へ移らねばならなかったのです。
また「小右記」にも同じようなことが記されており、筆者の藤原実資は道長の遊覧旅行に対し、
行啓を妨げるようなものである
として、藤原道長の行いを非難しています。(※行啓とは、皇太子や中宮がお出かけになること。ここで言う行啓とは定子が生昌邸へ移ること)
このように、権記や小右記といった当時の記録から、中宮定子に対する藤原道長の嫌がらせを確認することができるのです。
なお、藤原道長の遊覧に付き従ったのは藤原斉信や藤原道綱といった人物だったようですが、誘いに乗らなかった公卿もいたようです。
かと言って、中宮定子に加担するわけでもなく、日和見を決め込んだ者も多かったと言います。
こういった状況からも、道長サイドと定子サイドの緊張の度合いを感じることが出来ますね。
枕草子の虚構と真実
前述の通り、中宮定子は出産のために生昌邸へと移りました。
当然、定子に仕える清少納言ら女房たちも付き従っているのですが、彼女はこの時の状況を枕草子に詳しく書き残しています。
その章段が、枕草子 六段「大進生昌が家に」
※章段数は講談社学術文庫「枕草子(上)」に準じています。
この段からも、中宮定子が当時おかれていた状況、藤原道長による定子への嫌がらせとも思えるなどが散見されるので確認してきましょう。
「大進生昌が家に」の冒頭は、このように始まります。(わかりやすく意訳してお伝えします)
生昌の家に中宮様がお移りになる際、生昌邸の東の門を四足門に改築し、その門から中宮様の御輿がお入りになられました。
赤のアンダーラインを引いた部分に注目して頂きたいのですが、清少納言は「東の門を四足門(よつあしもん)に改築した」と言っています。
当時、中宮(皇后)や東宮(皇太子)といった身分の高い人物は、四足門を通過して敷地内に入るのが慣例とされていました。
ところが、中宮定子を迎える生昌はあまり身分の高い人物ではなかったので、家の門が四足門ではなく、簡素な板の門でした。
ゆえに生昌は、中宮ご一行が到着する前に、門を四足門に改築しておかねばならなかったのです。
今回も中宮定子を迎えるわけですから、枕草子でも当然の如く四足門に改築されていた様子が描かれています。
しかし、現実は違いました。
中宮定子が生昌邸の門をくぐった時のことを、小右記では以下のように記しています。
生昌邸は板の門である。人々が言ったことには「いまだ御輿が板の門を出入りするのは聞いたことが無い」と言うことだ。
つまり、生昌邸の門は改築されておらず、中宮定子は粗末な門をくぐる屈辱を味わっていたのです。
実は、この生昌邸による不手際も藤原道長の影響がありました。
前述の通り藤原道長の宇治遊覧により、上卿を務める人物が決まらなかったり、様子見を決め込んだ公卿が多かったりなどしたため、門の改築も後手後手に回ってしまったと言われています。
屈辱の清少納言
四足門に改築されていたと記す枕草子。
粗末な門のままだったと記す小右記。
一体どちらが正しいのかと言うと、小右記の記述が正解です。
枕草子の四足門の記述は、清少納言の虚構とされています。
では、なぜ清少納言は嘘をついたのでしょうか?
これは想像ではありますが、敬愛する中宮定子を乗せた御輿が、粗末な門をくぐらされたという屈辱、怒り、羞恥。
そういった感情が重なり、四足門に改築されなかった現実を無かったものにしてしまいたかったのかもしれません。
実際、「大進生昌が家に」の全体像としては、身分の低い生昌の至らぬ点や不敬な点を、清少納言たち女房が嘲笑しつづける内容になっています。
一見すると、身分の低い生昌に対する酷い内容に見えてしまうのですが、清少納言の心情としては、粗末な板門のまま中宮定子を迎えた生昌に対する恨みつらみが込められているのではないでしょうか。
気高き中宮定子
清少納言が、不敬な生昌を嘲笑しやり込める内容が描かれる「大進生昌が家に」。
一方で、屈辱を味わった張本人であるはずの中宮定子は、その不満を一切口にすることなく、むしろ清少納言らをたしなめる側にまわっています。
例えば同段にこんなエピソードがあります。
以下、そのエピソードを簡潔にお伝えします。
東の門から入っていった中宮様に対し、私たち女房を乗せた牛車は北の門から入っていきます。
ところが、北の門が小さすぎて牛車が通れません。
私たちは仕方なく牛車から降りて徒歩で屋敷を目指します。
清少納言屋敷に寄せて降りられると思っていたから、たいして髪の毛の手入れもしていなかった、人々の好奇の目に晒されるのがとても腹立たしい
すると中宮様は、
定子ここだって人に見られないとは限らないのに、どうしてそんなに気を許してしまったの?
とお笑いになりました。
この時の定子は、長徳の変により一家(中関白家)が没落しており、本人も出家してしまったので、中宮としての立場が疑問視されていました。
当然、白い目で見る貴族も少なからず存在しています。
しかし、枕草子はそんな中宮定子の悲哀を一切語りません。
ここで紹介したエピソードでも、ぷりぷりと怒る清少納言をやんわりと笑顔でたしなめています。
そんな中宮定子に対し、清少納言は、
牛車が入らない門なんてあるのでしょうか?生昌が顔を見せたら笑ってやりましょう
などと息巻いき、実際に生昌を笑いものにし、やり込めています。
しかし、その後も定子は生昌を擁護するような発言をしており、一貫してその立場を崩していません。
四足門に改築されず粗末な門を通過するという屈辱を味わった張本人である中宮定子。
しかし、その張本人は生昌を責めず、むしろ清少納言が生昌を嘲笑しやり込める。
そんな清少納言を、気品のある態度で、そして笑顔で諭す中宮定子。
どんな屈辱を味わっても、どんな不遇な立場であっても、いつも気高く、いつも優しい笑顔の中宮様。
枕草子はそんな定子像だけを、後世に伝えています。
中宮定子の出産を無視する藤原道長
屈辱的ではあったものの、同年11月7日。
中宮定子は無事に皇子を出産しました。
とてもおめでたい出来事ですが、実は同じ日にもうひとつ大きな出来事がありました。
藤原道長の娘 彰子が一条天皇の女御となったのです。
藤原実資の小右記、そして藤原行成の権記ともに、この2つの慶事を書き残しています。
しかし、彰子が女御になったことだけを記録し、定子の出産に一切触れていない日記が存在するのです。
それが、藤原道長の「御堂関白記」です。
御堂関白記には、彰子が女御になったことが如何に祝われたかが詳しく書かれている一方で、中宮定子の出産には一言も触れていません。
自分の娘が女御になったのですから、その喜びも大きかったことでしょう。ゆえに、定子の出産までを書き残す余裕がなかったのか?
もしくは、彰子に注目を集め、定子を迫害するため意図して書き残さなかったのか?
その真相はわかりません。
ですが、定子の行啓を妨害するかのように宇治遊覧を催した藤原道長の行動を鑑みると、意図して書かなかった可能性をどうしても考えてしまいます。
皇子誕生を記さなかった枕草子
ちなみに、枕草子は生昌邸へ移った時の様子は書かれていますが、生昌での定子の出産の様子は書かれていません。
中宮定子を敬愛する清少納言にしてみれば、皇子の誕生はたいへん喜ばしいことだったはずですが、なぜ枕草子に書き残さなかったのでしょうか?
その答えは、やはり藤原道長の権勢を意識してのことと思われます。
この当時、藤原道長は政治的トップの座に君臨しており、世はまさに道長の時代に突入していました。
道長にとって、中宮定子は道長の兄 藤原道隆の娘であり、言ってしまえば政敵に位置する存在です。
そんな中宮定子が皇子を産んだとなれば、その皇子が将来天皇になるまもしれません。
そうなれば、道長の権威が揺らぎます。
つまり、定子と皇子は目の上のタンコブになるわけで、その存在を枕草子で大きく扱えば、枕草子自体が道長に消されかねません。
枕草子には、定子の栄光を後世に伝える意図もあったと思われるので、消されてしまうわけにはいきません。
そこで、清少納言は直接的に定子の皇子誕生を記さなかったのではないでしょうか。
まとめ
以上、藤原道長による中宮定子への嫌がらせについてお伝えしました。
中宮定子が生昌邸へ移った際、藤原道長の妨害がありました。
そんな中で行啓を実行し、門が四足門に改築されていないと言う辱めを受け、生昌を嘲る清少納言。
一見すると、身分の低い生昌を侮蔑する清少納言のの高飛車な態度が目につきます。
しかし、その裏には敬愛する中宮定子が侮られたという大きな屈辱があったのです。
一方で、中宮としての気品を失わず、息まく清少納言を笑顔で諭す定子の姿。
この姿が、没落した定子の姿の全てを投影しているわけではないと思います。
しかしながら、没落し悲しみに暮れているだけではなく、枕草子が記す華やかさも持ち合わせていたことでしょう。
歴史の表舞台では語られることの少ない没落後の定子の明るい姿。
そんな中宮定子の輝きを後世に伝える枕草子は、非常に貴重な記録と言えるのではないでしょうか。
定子が皇子を産む 前日譚「枕草子だけに記された一条天皇と中宮定子の愛」についてもぜひご覧になってみてください。
【参考にした主な書籍】