歴史と銀閣寺に隠された、誰も知らないやりたい仕事の見つけ方

人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます

拓麻呂です。

 

あなたは今の仕事に満足していますか?

あるいは、本心では納得していないのに、会社や上司の方針に無理して従っていませんか?

 

会社員時代の僕は、まさしくこのように感じながら働いていました。

 

もし、あなたもそう感じているのなら、あなたの天職を見つけるための秘密の方法を、この記事でお伝えします。

その方法は、日本の歴史に隠されています。

 

 

『足利義政』という人物をご存じでしょうか?

今からおよそ550年前を生きた人物。

歴史的な言い方をすると『室町幕府第8代将軍』。

 

今で言うならば、当時の内閣総理大臣のような立場。

それが、将軍であった義政の立場。

 

そんな義政を語る上で絶対に外せないワードが3つあります。

ひとつは『応仁の乱』

ひとつは『東山文化』

どちらも歴史の教科書に出てくるワードなので、記憶にある方も多いと思いかもしれません。

 

さらに義政は、現代人でも馴染み深いある建造物と、密接な関係を持っています。

『慈照寺銀閣』。

京都の人気観光地のひとつ、いわゆる『銀閣寺』。

 

『応仁の乱』

『東山文化』

『銀閣寺』

 

この3つのワードが物語る、足利義政の魅力。

そこから導き出されるものこそ、『趣味三昧の生活』を実現するための答えであり、原点なのです。

 

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足利義政に学ぶ!天職の見つけ方

義政の性格と父の存在

まずは、足利義政の人生を追いかけていきましょう。

 

足利義政は、金閣寺で有名な『足利義満』の孫にあたります。

父は『足利義教(よしのり)』で、恐怖政治を行った将軍として知られています。

 

義政は長男ではなかったので、本来であれば将軍になる立場ではありませんでした。

実際に、義政の兄が7代将軍に就任しています。

 

ところが7代将軍の兄が早世、他の兄も東国統治のために関東へ赴いていたりで、将軍の順番が義政に回ってきたのです。

義政、この時わずか8歳。

義政は最初『義成(よししげ)』と名乗っており、『義』と『成』と言う字には、ともに武器である『戈(ほこ)』と言う字が隠れています。

これは、義政に武勇の誉れ高き将軍になってほしいという意図が込められていたようです。

また、室町幕府の地盤を確固たるものにした祖父 義満のような強い将軍になってほしいという願望も含まれていました。

しかし、この周囲の想いが、義政の人生を狂わせていくことになります。

 

義政は、決して勇ましい人物ではなく、その性格を表すエピソードが残されているので、いくつかご紹介します。

当時『犬追物(いぬおうもの)』という競技が、武士の間で流行していた。

犬追物とは、一定の範囲にたくさんの犬を放ち、所定の時間内に何匹の犬を弓で射抜くことが出来たかを競う競技。

しかし義政は、生き物の命を奪う犬追物が大嫌いだった。~臥雲日件録より~

 

義政は邸内の木で琴を作り『衛文』と名付けた。

『衛文』とは『文事(学問・文芸)を衛る』という意味で、武芸とは対極の意味を持つ。~康富記より~

 

このようなエピソードから想像できること。

それは、義政は争いを好まない穏健派であったということです。

 

祖父 義満、父 義教が、どちらかというと武断の人であったにも関わらず、その特直系である義政が何故このような性格になってしまったのか?

それは、父 義教の影響が大きいように感じます。

 

義教は『万人恐怖』と恐れられた独裁政治を行った人物。

義教の機嫌を損ねるようなことがあれば、例えそれが些細なことであっても処刑してまうような圧政でした。

その苛烈さは異常を極め、武家、公家のみならず、侍女や料理人などの一般庶民にまで及んでいます。

また、横暴さが目立つ宗教勢力に対しても圧制を迫り、比叡山延暦寺が粛清を食らっています。

なお、比叡山の粛清としては、織田信長による焼き討ち事件が有名ですが、それに先駆け義教が強行しているのは興味深い事実です。

 

そんな義教でしたが、これまでの恐怖政治が災いし、酒宴の最中に家臣の赤松満祐に襲撃され討ち取られてしまいました。

これを『嘉吉の変』と言います。

この時、義教を庇うものはほとんどおらず、列席していた重臣たちは逃げ惑うばかり、変後に弔い戦すら行いませんでした。

恐怖政治が災いし、多くの者の心が義教から離れていたことの表れでしょう。

 

この時、義政6歳。

強硬な独裁体制を敷き、多くの敵を作って非業の最期を遂げた父の姿。

6歳の義政少年の瞳にはどう映ったのか?

幼いころの恐ろしい記憶として、心に刻み付けられたに違いありません。

強硬姿勢を貫いた挙句、家臣に殺された現実を恐れ、それを無意識のうちに反面教師として成長したのではないでしょうか。

ゆえに、武を嫌い、文を尊ぶ穏健派であったと想像します。

 

ポンコツ将軍と応仁の乱

しかしながら、このような性格の義政が、『応仁の乱』と言う動乱の最中の将軍であったことが、当時の人々にとって災難だったことは想像に難くありません。

と言うか、応仁の乱の原因にも、義政の性格が大いに関係しています。

大人の乱と言えば1467年に始まり、約11年もの長きに渡り繰り広げられた無益な戦いとして知られています。

『人の世むなし(1467)』の語呂合わせを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

 

そんな虚しい大人の乱の根本の原因は、有力守護大名の畠山家のお家騒動です。

二派にわかれた畠山家の一方を義政が支持。

ところが義政の行動が曖昧で、周囲の不満を招きました。

 

そんな最中に、今度は義政自身の後継者争いが絡んできます。

 

義政と正妻『日野富子』は男児に恵まれず、義政の弟『義視(よしみ)』を次期将軍として後継者に指名していました。

ところが、後に富子が懐妊し、男の子が生まれます。

後の足利義尚(よしひさ)です。

 

この時、義政30歳、富子25歳。

よくよく考えてみれば、この年齢で子供を諦めて弟の義視を後継者に指名するのは、ちょっと早すぎるのでは?という感は否めません。

これは想像ですが、後の義政の行動を見る限り早く将軍の座から降りたかったのでは?と勘ぐってしまいたくなります。

 

ともかくも、富子が義尚を産んだことで、将軍家でも後継者争いが勃発します。

義政としては義視を後継者に指名していますが、富子からすれば自分が生んだ子供に将軍になってほしと思うのは当たりまえ。

夫婦間での足並みが揃わないうえ、ここに畠山家の争いも絡み、足利将軍家も二派に分裂してしまいました。

また、畠山家と同等クラスの守護大名家である斯波家でもお家騒動が勃発。

さらに、当時の有力守護大名であった『細川勝元』と『山名宗全』が介入し、各派の大将のような格好となり、いよいよ混迷を極めていきます。

これが応仁の乱の発端です。

 

なお、乱の要因にもなっている『畠山家』と『斯波家』は、この頃の政治の中枢を担う家柄。

畠山、斯波、そして『細川家』の三家を『管領家』と言います。

そして、管領家の上に君臨しているのが将軍である『足利家』です。

応仁の乱の原因に関わる人たちを、もう一度よく見てみましょう。

  • 『畠山家』と『斯波家』のお家騒動。
  • そして、将軍である『足利家』の後継者争い。
  • さらに、『細川家』の当主 細川勝元の介入。

 

当時の政治の中枢を担う家が、全て乱の発端に関わっています。

この入り乱れた感じが、応仁の乱の面倒さを物語っています。

 

『義政が後継者に指名した義視』VS『我が子を次の将軍にしたい義政の妻 富子』

さらに義視は『細川勝元』を、富子は『山名宗全』を後ろ盾にし、完全に対決姿勢となりました。

 

このような大混乱に陥ったので、当然政治は乱れます。

でも、誰かが止めねばなりません。

それが誰の役目であるのか?

『足利義政』です。

将軍とは現在の内閣総理大臣のようなもの、つまり政治のトップに君臨する役職です。

次期将軍は弟の義視なのか、それとも自分と正妻の子である義尚なのか?

義政は自らの意思を明確に示し、その威厳を示さねばなりません。

そして、乱を鎮めねばなりません。

 

しかし、義政にはそれが出来ませんでした。

 

義政の性格を思い出してみてください。

武を嫌い、文を尊ぶ穏健派です。

 

一応は、自らが後継者に指名した手前、義視派ということにはなっていましたが、富子や山名宗全の勢いを抑えることは出来ず、乱は収まりませんでした。

しまいには近臣らと遊興に耽って、乱には無関心を決め込む始末。

そんな義政は、乱の最中にこんな和歌を詠んでいます。

はかなくも なお収まれと 思うかな かく乱れたる 世をばいとはで

『いつか平和に戻ると信じている。このように乱れていても、煩わしいと世とは思わない』

という意味です。

 

良く言えば、物腰の柔らかい平和主義者。

悪く言えば、投げやりで無責任。

 

そんなイメージを抱かせる和歌です。

 

このように、義政はとにかく争いごとが嫌いな穏健派でした。

しかしながら、将軍になった当初や乱の初期には、それなりの対応を行っており、停戦を命じたりしています。

いくら平和主義者な義政とは言え、初めの頃はそれなりのやる気に満ち溢れていたのかもしれません。

 

現代でも、新たな職場に就職したばかりの頃であったり、会社で昇進した直後はやる気に満ちていたけれども、時が経つにつれ理想と現実の乖離を感じ、やる気をなくしたり、あるいはルーチンワークになってしまったり、というのはよくあることです。

 

自分の言うことは誰も聞いてくれない・・・。

自分はなめられている・・・。

自分は将軍には向いていない・・・。

義政の心は次第に荒んでいき、職務放棄のような格好になっていったのではないでしょうか。

 

そもそも、将軍になる立場ではなかった義政が、将軍と言う立場を本当に望んでいたのかも、はなはだ疑問です。

彼の生い立ちや性格、行動を鑑みると、元から将軍になどなりたくなかったのではないかと思えてきます。

 

結果、義政の優柔不断によって巻き起こった将軍の後継者争いは、富子が生んだ実子 義尚が9代将軍となりました。

こうして義政は将軍という重責から解放されました。

 

義尚が9代将軍となった背景のひとつには、義政が富子のに押し切られたという側面もあるのではないでしょうか。

将軍としても自分の意思を貫けず、夫婦間でも妻に押し切られてしまった義政。

自身の意志の弱さ・・・、影響力の無さ・・・。

今で例えるなら、職場でも家庭でも居場所を無くした男性のような・・・。

そんな自分自身の姿を、義政はどう見つめていたのだろう・・と想う時があります。

 

昭和の足利義政の研究者として名高い芳賀幸四郎氏は、義政の将軍としての評価をこう述べています。

義政は政治家として、ことに応仁・文明の大乱を中にはさむ乱世の将軍としては、完全に落第であった。大乱勃発の責任の一半は彼に帰すものであり、その政治歴は文字通り失政の連続で、弁護の余地はない。

 

周囲の人たちに振り回され続け、自分の意思を全く示すことができなかった優柔不断なダメ将軍『足利義政』は、徹頭徹尾、将軍に不向きな人物だったのです。

 

東山文化と銀閣寺

こうして将軍の座から離れることになった足利義政。

ここから彼の第二の人生が始まります。

そして、第二の人生こそが、義政が最も輝いた瞬間であり、彼の魅力が最大限に発揮されているのです。

 

将軍職を退いた義政は、かねてより思い描いていた自らの隠居所の建築に乗り出します。

この隠居所の一部が、現在の京都の人気観光地『銀閣寺』です。

 

銀閣寺と言えば、同時に連想されるのが『金閣寺』です。

金閣寺を建てたのは、義政の祖父『足利義満』です。

 

足利義政の銀閣寺。

足利義満の金閣寺。

 

セットで連想される二つの建造物。

しかし、その建築意図は全く異なっています。

 

金閣寺を建立した足利義満は、室町時代においても特に強大な権力を有した将軍でした。

一説には、天皇を凌駕しようとしていたとも言われています。

このような絶大な権力を有した義満は、その威厳の象徴として北山山荘を築きました。

しかし『山荘』という言葉とは裏腹に、北山山荘は休暇を楽しむような場所ではなく、正確には政務を取り仕切る政治の中心地でした。

そして、隠居後もこの場所で政治の実権を握り続けました。

この北山山荘の一部が、全体を金で装飾した鹿苑寺金閣、現在の『金閣寺』です。

 

一方の銀閣寺。

義満に倣い、自身の隠居所として築きました。

将軍ではなくなった義政が、余生を過ごす場所です。

銀閣寺を含むこの場所を『東山山荘』と言います。

 

一説によると、金閣寺のような装飾をしようとしていたと言われていますが、お金がなかったため叶わなかったと言われています。

ともかくも、銀閣寺は派手な装飾が施されていない、とても質素な見た目となっています。

 

自らの威厳の象徴であり、政務を執り行う公の場所『金閣寺』。

自らが余生を過ごす場所であり、あくまで個人の私的空間『銀閣寺』。

 

義政は、この私的空間である銀閣寺にこもり、趣味の限りを尽くし、まさに趣味三昧な生活を送りました。

将軍時代には、実現できなかった自身の理想を手にしたのです。

 

義政は、自身の好きなことに囲まれて過ごす生活を実現するため、銀閣寺の造営に最大限の情熱を注ぎました。

自ら図面を見ながら指図をし、庭園の造営を指揮したり、建築物の入り口に飾る表札的なものに彫った文字の書体、あるいは文字の太さにも注文を付け、細部にまで自身のこだわりを反映させました。

 

『自らの理想を実現させたい』

その一心で、義政は銀閣寺造営に、無我夢中で取り組みました。

 

それは、将軍の時には全く見せなかった、自らの意思で動く義政の姿でした。

 

天職を見つけた足利義政

自分の意思で、情熱を持って無我夢中で造営した銀閣寺に、義政は移り住みました。

義政は、銀閣寺で趣味を徹底的に楽しみました。

 

そして、ひとつの文化を生み出しました。

その文化を『東山文化』と言います。

 

東山文化とは『わび・さび』の文化です。

質素なものに美しさを見出す、それが『わび・さび』です。

 

実は、現代の日本人が『和』を感じるものの多くが、この東山文化から生まれています。

中でも、最も現代日本人に馴染み深いのが『和室』です。

ひとつの部屋に畳を敷き詰め、障子や襖、床の間がある風景。

日本人なら誰もが日本らしさを感じる『和室』は、義政が創造したものなのです。

義政以前にも畳は存在していましたが、部屋に敷き詰めることはなく、板敷きの何畳か敷いて、その上に座るという用途で使用されていました。

 

その他にも、茶道や華道、和風庭園など、東山文化が生み出した『和』は多岐に渡ります。

 

将軍時代は人の意見に流され続けた義政が、銀閣寺に引きこもり趣味に情熱を傾けていた結果、現代まで続く『日本らしさの原点』を創出したのです。

言い換えるならば、義政は『日本人の心』を生み出したのです。

 

義政は応仁の乱を招き、結果的に戦国時代という乱世の扉を開けてしまいました。

その戦国時代は、織田信長と豊臣秀吉を経て、徳川家康が終焉へと導きました。

そして太平の世が約260年続きました。

しかし、黒船来航によって再び動乱の時代へと突入していきました。

その後、明治維新が成ったあとは、世界との戦いへと突入し、日清戦争と日露戦争の勝利と大東亜戦争の敗戦を経て、現代に至っています。

 

義政が生きた時代以降、日本の統治機構は何度も変化してきました。

しかし、義政が造り上げた『日本人の心』は今も変わらず、日本人に脈々と受け継がれています。

 

義政は政治力で世の中を治めたり、ましてや武力で天下を統一できるような人物ではありませんでした。

しかし、義政の文化は現代まで日本人の心を制し続けています。

そういった意味では、義政は文化で日本人の心を統一し、今なおその天下は続いていると言えるのではないでしょうか。

 

天職とは?

このように、日本人の心の原点を作り上げた足利義政。

しかし、ここまでお伝えしてきた通り、将軍時代の義政は褒められるような人物ではありませんでした。

 

少しだけ、あなた自身の現状を思い浮かべてみてください。

 

今の職場で、本当に情熱を持って働けているでしょうか?

上司や部下の意見に、振り回されていないでしょうか?

なりたくもなり管理職になって、偽りの自分を演じていないでしょうか?

望まないポジションで、望まない将来に突き進んでいないでしょうか?

 

もし、そうだとしたらちょっとだけ立ち止まってみてください。

 

会社や上司、あるいは部下の意見に引っ張られている状態、本心とは違っても会社や上司の意向に従っている状態は、あなたの人生を他者が決めていることになります。

嫌々将軍をやっていた足利義政と同じ状況です。

そんな状況で、本当にあなたが望む将来を手に入れられるでしょうか?

 

義政は将軍という望まない職を捨て、銀閣寺で本当に好きなことへの情熱を傾け続けました。

自分の意志で、自分のやりたいことに情熱を傾け続けました。

自分の『好き』という意思を軸にして生きる道を選びました。

その結果、日本人の心を生み出し、その文化は今も僕たち現代日本人の心を掴んで離しません。

 

義政は、本当にやりたいことをやって『文化』という結果を残しました。

将軍時代は何も出来なかった義政が、本当に好きなことに情熱を傾けた結果、大きな結果を残しました。

 

もう一度だけ、お伺いします。

今の職場で、本当に情熱を持って働けているでしょうか?

上司や部下の意見に、振り回されていないでしょうか?

なりたくもなり管理職になって、偽りの自分を演じていないでしょうか?

望まないポジションで、望まない将来に突き進んでいないでしょうか?

 

もし、今のあなたがこのような感情を抱いているのなら、それはあなたがやるべき仕事ではないのかもしれません。

 

あなたが心から情熱を傾けられること、時間を忘れて熱中できること。

それらを仕事にできた時、あなたの思い描く将来を手に入れ、嬉しい結果を得ることが出来る。

そういった仕事こそが『天職』と呼べるもの名ではないかと、僕は考えています。

それこそが、足利義政が、銀閣寺が、東山文化が訴えかける、現代人へのメッセージなのです。

 

 

【主要参考資料】

河合正治【足利義政と東山文化】吉川弘文館

ドナルド・キーン【足利義政と銀閣寺】中公文庫

今谷明【室町の王権 足利義満の王権簒奪計画 】中公新書

倉山満【足利の時代】青林堂

呉座勇一【応仁の乱】中公新書

小川剛生【足利義満】中公新書

永原慶二【日本の歴史 下剋上の時代】中公文庫

田端泰子【足利義政と日野富子】山川出版社