酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政
この4名を総称し「徳川四天王」と呼びます。
徳川四天王とは、徳川家康の家臣たちの中でも、特に功績のあった4名を指す呼び名で、徳川家康の歴史を紐解く際には必ず名前の登場する武将たちです。
この記事では、そんな徳川四天王の活躍を簡単な年表を交えつつ解説するとともに、それぞれの人物像や印象深いエピソードなどを、初心者でもわかりやすくご紹介していきます。
また、「四天王」とか「三人衆」とか「七本槍」とか「二十四将」とかの括りの中で誰が一番強いのか?といった部分はやはり気になるところですよね。
なので、筆者の個人的な意見も軽くお伝えしていこうと思います。
※本記事の年表に記載されている年齢は数え年となります。
酒井忠次の年表とプロフィール
酒井忠次は、徳川四天王の中でも筆頭的な存在で、徳川家康とその父 松平広忠の2代に仕えていた武将です。四天王の中では最年長で、最年少の井伊直政とは34歳もの年齢差がありました。
徳川家康が今川義元の人質となった際にも家康に付き従い、駿河(現在の静岡県中部)へ移住。その後も、家康を代表するような有名な戦いにはほとんど参戦しており、「東三河の旗頭」と呼ばれ活躍しました。
酒井忠次のエピソード
そんな酒井忠次を代表するエピソードが、織田信長への使者を務めた時の出来事です。
徳川家康の息子「松平信康」の正妻は織田信長の娘「徳姫」でした。しかし、信康&徳姫夫妻には、なかなか男の子に恵まれません。
その結果、家康の正妻であり信康の母でもある「築山殿(瀬名)」が、徳姫を蔑ろにし始めたのです。こうした状況を、徳姫は実父 織田信長に報告しました。
また、築山殿と松平信康が武田家へ内通しているなどの疑いもあり、その疑惑は全部で12箇条にも及んだと言われています。
こうした事態を弁明するために、酒井忠次は織田信長の居城 安土城へ赴きました。かなり大任です。
しかし、弁明に失敗したため、築山殿は処刑され、松平信康は切腹となってしまいまいた。
※この出来事の原因や経緯については諸説あります。
後年、酒井忠次は息子の「酒井家次」に与える領地を増やしてほしいと家康にお願いした際、痛恨の一言を浴びせらたと言われています。
息子の領地を増やしていただけませんか?
お前も我が子がかわいいのか?
・・・・・・・
これは、弁明に失敗し信康を助けられなかった酒井忠次への皮肉だったと言われています。
あくまで個人的な感覚なのですが、徳川家康の家臣を代表する人物ではあるのものの、他の四天王に比べるとなぜか印象が薄い感じがしています。徳川家康の天下が決定的となった関ヶ原の戦いの時に唯一亡くなっていた四天王なので、その辺も印象の薄さに関係しているのかもしれません。
本多忠勝の年表とプロフィール
本多忠勝は徳川家康が、今川義元の人質になっていた頃からの家臣で、徳川家きっての猛将です。そんな本多忠勝の評価を知る上で、とても有名な言葉があります。
家康に過ぎたるものがふたつあり 唐の頭に本多平八
本多平八とは本多忠勝のことです。
『家康に過ぎたるもの』、つまり徳川家康の家臣にしておくには勿体ないほど優秀な人物と称えられた名将なのです。また、東国無双と呼ばれる豪傑だったとも伝わります。
本多忠勝のエピソード
本多忠勝の豪傑ぶりを示す逸話の最たるものが、いわゆる「神君伊賀越え」でのワンシーンではないでしょうか。
「神君伊賀越え」を簡単にお伝えすると、本能寺の変の際に京都にいた徳川家康が明智光秀軍に包囲されそうになった際、伊賀(現在の三重県西部)を経由して無事に逃げ帰った出来事です。
本能寺の変で動揺する徳川家康は、切腹して織田信長の後を追おうとしますが、それを制止したのが本多忠勝でした。
忠勝の説得で切腹を思いとどまった家康は、伊賀国を経由して自領の三河まで見事に帰還できたのです。
伊賀越えは、本多忠勝が村人に道案内をさせたり、小川城と言う城に招かれた際にも城主が明智と通じていないか確認するため、単身で城に乗り込むなど、本多忠勝の活躍がなければ実現しえなかったのです。
また、本多忠勝は戦場でかすり傷ひとつ負わなかった武将としても知られています。そんな忠勝が戦場で手にしていた名槍が『蜻蛉切』です。
蜻蛉切は約4メートル近い長さを誇り、天下三名槍に数えられる一本であり、槍の刃先にとまたトンボが、真っ二つになってしまったことがその名の由来とされています。
そんな名槍 蜻蛉切とともに幾多の戦場を駆け巡り、徳川家康の覇道を助け続けたのが本多忠勝なのです。
榊原康政の年表とプロフィール
三河一向一揆鎮圧で初陣を飾って以降、徳川家康の主要な合戦にはほとんど参戦して活躍した武将です。本多忠勝とは同い年であり、仲が良かったと伝わっています。
武勇に優れた武将である一方、字が上手で徳川家康の手紙を代筆していたとも言われています。
猛将という観点で見ると、本多忠勝や井伊直政の個性が強烈すぎるため、やや見劣りする印象がありますが、徳川四天王の中でも文武のバランスがとれた武将だったと言えるのではないでしょうか。
榊原康政のエピソード
榊原康政を代表する逸話と言えば、やはり第二次上田城合戦でのエピソードでしょう。
慶長5年(1600年)榊原康政は家康の息子で後継者 徳川秀忠に従い関ヶ原へと進軍する途上で、信濃(現在の長野県)の上田城を攻めていました。
しかし、上田城主は戦国時代きっての知将 真田昌幸。徳川秀忠は上田城攻略に手こずり、関ケ原の戦いに間に合わなかったのです。結果、徳川家康が激怒して、秀忠の弁明を受け付けませんでした。
そんな中で、徳川家康の説得にあたったのが、秀忠と行動をともにしていた榊原康政でした。
いずれ2代将軍となる息子が、父に認めてもらえない者として周囲に認識されてしまったら、殿(家康)も天下の笑いものになりますぞ!!
このように、徳川家康を涙ながらに諭す榊原康政の訴えを受け、家康はついに秀忠との面会を許したのでした。
父との面会ができた徳川秀忠は、康政にたいそう感謝したと言われています。
井伊直政の年表とプロフィール
徳川四天王の中では最年少だった武将です。
井伊直政が率いた部隊は軍装を赤で統一しており、「井伊の赤備え」としてその名が轟いていました。また、井伊直政自身も「赤鬼」の異名で恐れられていたと伝わっています。
上野(現在の群馬県)と、後に近江(現在の滋賀県)を領地としており、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の礎を築いた人物としても知られ、政治面でも大きな活躍をしました。
井伊直政のエピソード
井伊直政の養母と言われているのが、女城主として有名な「井伊直虎」です。直政が2歳の時に父が亡くなったため、親戚の井伊直虎が養育することになったのです。
井伊直政と言えば「赤備え」です。そんな井伊直政が赤備えの部隊を率いることになったのが22歳の時でした。
赤備えは、もともとは武田信玄の家臣であった飯富虎昌や山県昌景といった武将が率いていた部隊です。武田家が滅亡した後に、武田家の遺臣を徳川家康が引き取り、井伊直政に与えられました。
そんな赤備えの部隊を率い参戦した関ヶ原の戦いでは、井伊直政が抜け駆けしたために戦闘が開始したと言われいます。
そして、徳川家康を総大将とする東軍勝利が決定的となった後、敗走する島津義弘軍を追撃し重臣を討ち取るなどの活躍を見せますが、島津軍が放った銃弾が直政に当たってしまいます。
その傷が原因で約2年後に亡くなりました。
井伊直政が亡くなったのは1602年、徳川家康が江戸幕府を開いたのが1603年なので、直政は徳川の天下を見ることなく亡くなってしまったのです。
徳川四天王の最年少でありながら、最も短命でした。
徳川四天王 最強は誰だ?
最後に徳川四天王の最強は誰なのか?といった点に触れてみたいと思います。
結論から言ってしまうと、私個人としては「本多忠勝」かなと・・・。
やはり「家康に過ぎたるものが・・・」の言葉が残っていますし、生涯で57回の戦に参加し、一度も傷を負わなかったとも言われています。
さらには、あの織田信長をして
花も実も兼ね備えた武将である
と言わしめたとされていますし、豊臣秀吉からも
日本第一、古今独歩の勇士
東に本多忠勝という天下無双の大将がいる
と称賛されていたそうです。
とは言え、最強の定義もよくわかりませんし、見方によってはいろいろな意見があると思います。実際にあったこともありませんし、実のところ「よくわからない」というのが本音だったりもします。
徳川四天王まとめ
以上、徳川四天王のまとめでした。
酒井忠次
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
それぞれに個性や魅力があり、好みの人物もいると思いますので、ぜひここに注目してみてください。
この記事を通じ、より戦国時代に興味を持っていただければ幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。
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