姫若子の挑戦!長宗我部元親の名言と四国統一への道

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拓麻呂です。

戦国時代、四国を舞台に活躍した武将『長宗我部元親』

幼いころは『姫若子』と呼ばれた元親は、やがて四国統一を果たし『土佐の出来人』と呼ばれるに至ります。

晩年は、悲劇に見舞われ、かつての輝きを失ってしまった為、評価の分かれる元親。

しかし、四国制覇までの道のりは、彼の非凡な才能が無ければ成し得なかったことと思います。

今回は、そんな長宗我部元親に迫ってみましょう。

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土佐の出来人!長宗我部元親

出典:Wikipediaより

姫若子から土佐の出来人へ

元親は1539年に土佐国(とさのくに、現在の高知県)で、長宗我部国親の子として生まれます。

幼いころは、色白でひょろひょろした容姿だったため、周囲からは『姫若子(ひめわこ)』と揶揄されていた元親。

しかも、挨拶されても返事が出来ないような、人見知りでもあったようです。

さらに、元親が初めて合戦に臨んだのは23歳。

当時としてはかなり遅い初陣でした。

しかし、元親はこの初陣で活躍し、その才能を周囲に見せつけました。

元親は、家臣に大将のあり方を問いかけます。

すると、家臣はこう答えました。

『槍は相手の目や鼻を目掛けて突き、大将は先駆けなどせず、どっしりと構えているものです』

元親は、この言葉の通り初陣に臨み、見事に敵を切り崩す戦功をあげました。

この時から、周囲の元親を見る目が変わります。

元親は勇敢な大将となり土佐を平定、四国全土の制覇を目指し戦国の世を駆け抜け『土佐の出来人』と呼ばれるようになります。

鳥無き島の蝙蝠

元親は、四国統一を目指す最中、織田信長と同盟を結んでいます。

信長は、元親を評してこんな言葉を残しています。

『鳥無き島の蝙蝠(こうもり)』

この言葉には、こんな意味が込められています。

鳥のいない島では、蝙蝠が空で幅を利かせられる。

しかし、鳥がいれば、空は鳥のもの。

四国には鳥のような優れた人物がいないから、元親はデカい顔をしていられるのだ。

つまり、信長は元親を『井の中の蛙』だと言っています。

信長は元親を軽んじていた節があり、約束を反故にして四国に攻めようとしたりしています。

こういった信長の対応が、後の本能寺の変の遠因になったとする説もあります。

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一領具足と四国平定、そして坂本龍馬へ・・

元親の四国統一に大きく貢献した『一領具足(いちりょうぐそく)』という制度があります。

一領具足を簡単に表現すると、『武装した農民』です。

普段は農作業に邁進している者たちが、いざ合戦となれば、元親の号令ひとつで駆けつける集団。

畑の畔に、いつも槍や鎧兜を一領(1セット)置いておき、いつでも馳せ参じられるようにしていたことから『一領具足』と呼ばれています。

兵農未分離であったがゆえに可能だった制度ですが、この一領具足が元親の四国制覇の大きな原動力になっています。

なお、関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部家は所領没収となり、土佐は山内一豊が治めることになります。

その際、一領具足の反発にあったため一豊は弾圧を行い、彼らを『郷士』という身分にし、下級武士として取り立てました。

この郷士の身分から、260年後の幕末を代表する人物が登場します。

『坂本龍馬』です。

さらに武市半平太なども郷士の出身です。

土佐は山内家の所領となってしまいましたが、坂本龍馬や武市半平太は長宗我部家と非常に関りの深いルーツを持っています。

明治維新とは、関ヶ原の敗者たちが実現した革命です。

薩摩の島津家、長州の毛利家。

そして、土佐は長宗我部家とゆかりのある人物が活躍し、明治維新を実現させています。

悲痛!戸次川の戦い

時は流れ、豊臣秀吉の時代がやってきます。

秀吉は天下統一を目指し、四国に軍を派遣します。

最初は抵抗した元親でしたが、圧倒的な軍事力の前に降伏。

長宗我部家は秀吉の軍門に下りました。

このあたりから、元親の人生が狂い始めます。

秀吉は、九州を平定するため兵を派遣します。

相手は、戦国屈指の強豪 島津家。

元親は息子の信親とともに、九州征討軍の先鋒として従軍しました。

この時、仙石秀久という武将と元親の意見が、真っ向から対立します。

戦場に流れる戸次川。

仙石秀久は川を渡って進軍すべきと主張、一方元親は援軍を待つべきと主張。

しかし、仙石秀久は渡河を強行します。

やむなく従った元親と信親。

しかし、この渡河作戦が命取りとなりました。

島津軍に急襲された仙石軍は、真っ先に敗走してしまいます。

乱戦の中に取り残されてしまった元親と信親父子。

やがて元親と信親は離れ離れとなり、お互いの行方が分からなくなってしまいました。

その後、元親はこの危機を何とか脱しますが、信親が帰ってくることはありませんでした。

元親の悲しみは深く、自害しようとして諫めらたと伝わっています。

長男を失った長宗我部家は、家督問題が浮上。

元親は四男で末っ子の『盛親』を跡取りに指名しました。

ところが、次男と三男がいるのに、盛親に家督を譲るのはおかしいと、家臣の反発に合います。

この時、元親は反対派を粛清し、強引に盛親を跡取りとしてしまいました。

そこには、四国制覇を夢見ていたころの元親の姿はありませんでした。

信親を失ったことで冷静な判断が出来なくなり、かつての輝きを失った元親は、1599年にこの世を去りました。

享年61

そして、この翌年に関ヶ原の戦いが勃発。

家督を継いだ盛親は、西軍として参戦しましたが敗北。

長宗我部家は所領を没収され、滅亡しました。

そして1615年 大阪夏の陣。

盛親は浪人として豊臣方に参戦しましたが、奮戦むなしく敗北、その後処刑されました。

四国全土を制覇した長宗我部家は、こうして歴史の表舞台から姿を消すことになたのです。

元親の野望を受け継いだ一領具足

戦国時代に、各地域を席捲した大物たち。

北陸の上杉謙信

甲信の武田信玄

関東の北条氏康

東海の今川義元

畿内の三好長慶

中国の毛利元就

九州の島津義久

そして、四国の長宗我部元親。

元親も彼らと同様に、戦国時代を形作った重要な人物です。

しかし、なぜか他の大物に比べて、今一歩何かが足りないように感じてしまいます。

その原因は、やはり晩年の英雄らしからぬ振る舞いにあるのではないかと思います。

もし、戸次川の戦いで信親を失わなかったら・・・

信親を失わなかった元親が、もしあと1年長生きし、関ヶ原を迎えていたら・・・

長宗我部家の運命は、また違ったものになっていたはずです。

姫若子と呼ばれた軟弱な男が、土佐の出来人となり駆け抜けた四国制覇の夢。

その夢は、260年後の幕末に、元親とともに戦場を駆けた一領具足の末裔たちによって、徳川幕府打倒という形で果たされることになるのです。

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元親の名言

元親が残した、ある名言があります。

一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず

一つの道を究めることこそが肝要、多くの道を究めようとする者は、結局なにも究めることは出来ない、という意味です。

元親が究めようとした道。

それはきっと四国制覇への道。

僕は元親の名言に、そんな意味が込められている気がしてなりません。

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。


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