運は天にあり!越後の龍 上杉謙信の名言の意味と義を重んじた性格

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戦国時代と戦国武将

運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり

 

何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。

 

死なんと戦えば生き、

生きんと戦えば必ず死するものなり。

 

運は一定にあらず、時の次第と思うは間違いなり

武士なれば、わが進むべき道はこれほかなしと、

自らに運を定めるべし。

 

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

『軍神』

『毘沙門天の化身』

『越後の龍』

 

色々な異名で呼ばれ、『毘』の一字を染め抜いた旗印を翻し、戦場を駆け抜けた戦国武将。

 

上杉謙信

 

義を重んじ、甲斐の虎『武田信玄』、相模の獅子『北条氏康』といった戦国屈指の実力者を相手に一歩も引かなかった上杉謙信。

 

彼の行動を紐解く上で、欠かせない格言が冒頭に示した引用文です。

 

行動を重んじ、自ら道を切り開いていった謙信。

そして、その先に開けた奇跡のエピソード。

 

今回は、戦国最強武将との呼び声も高い上杉謙信の化け物じみたエピソードに迫ります。

 

※なお謙信は何度か名前が変わっていますが、煩雑さを避けるため『上杉謙信』で統一しています。ご了承ください。

 

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我は毘沙門天の化身なり!上杉謙信

出典:Wikipediaよ

謙信の名言『運は天にあり・・・』

では、冒頭に示した謙信の名言の意味を解説します。

 

そもそも、運は天上が決めることで自分でどうにか出来るものではない。

しかし、鎧を着るように自分の身を守ることは、人の能力、心によって日々の準備が可能である。

 

手柄も天が与える物ではなく、自力で勝ち取ることが出来る。

 

戦は運任せにせず、自分の手のひらで転がすように戦わなければならぬ。

 

死ぬ気で戦えば生き残り、生き残ろうとすると死ぬものだ。

 

運を占いだけで決め、一定の周期で巡って来ると思うのは大間違いじゃ!

武士なら自分の進むべき道は自分で考え、自分の責任で行動せい!!

だいたい、こんな意味です。

 

ちょっと長いので、まとめるとこうなります。

 

運などに頼らず、自分の道は自分で切り開かんかい!!

 

なんとも謙信らしい格言です。

 

そして、謙信の逸話には、この言葉を体現するような奇跡のワンシーンが存在します。

 

 

謙信が起こした奇跡

1561年

この時、関東を蹂躙していた相模の北条氏康。

 

関東に割拠する国衆たちは北条氏の侵攻に苦しみ、謙信に救援を求めます。

義を重んじる謙信は、当然動き始めます。

 

北条氏の居城 小田原城に向かい進軍を開始する謙信。

 

その途中で、次から次へと謙信に合流していく関東の国衆たち。

いつしか上杉軍は10万人とも言われる大軍勢に膨れ上がっていました。

 

謙信は10万の大軍を持って小田原城を包囲。

北条は城に籠ってしまった為、持久戦(籠城戦)が開始されます。

 

そんな中、謙信が奇想天外な行動に出ました。

 

突然、小田原城の前に一人で現れ、腰を下ろし弁当を食い始めました。

悠々と弁当をむさぼり、茶をすする謙信。

 

その様子を見ていた北条は、好機とばかりに城内から謙信めがけて、鉄砲を放ちます。

 

しかし・・・・

 

なぜか謙信には当たりません。

銃弾が飛んでくる中でも、悠々と弁当を食っている謙信。

 

動かずに弁当を食っている謙信など、格好の的。

今度こそはと、再度謙信目掛けて発砲する北条軍。

 

が・・

 

1発として謙信に命中した弾はありませんでした。

 

これは、運良く弾が当たらなかった訳ではありません!

 

謙信の言葉が示す通り、自ら関東の国衆たちに道を示し、北条討伐という行動を起こしたことで、毘沙門天の化身となった謙信には、銃弾が当たらなかったとしか言いようがありません。

 

つまり、弾が謙信をよけた、とでも言いましょうか・・・。

 

自ら道を切り開いた謙信は、『当てらるものなら当ててみろ!』という自信があったのでしょう。

ともかくも謙信は自ら道を切り開いたんです。

 

 

奇跡の背景(ちょっと真面目な歴史解説)

と言う奇跡的な逸話が残る謙信ですが、ちょっと真面目?に小田原城包囲の背景をお伝えします。

 

小田原城包囲戦の少し前、謙信は『関東管領(かんとうかんれい)』という役職に就任しています。

関東管領とは、関東の統治権を持った責任者みたいなものです。

 

ところが、北条氏も『関東管領』を名乗っていました。

つまり、上杉と北条の争いは、『正当な関東管領は俺だ!』という関東管領の正当性を巡る、意地の張り合いが背景にあります。

 

そこで謙信は、武家発祥の地である鎌倉(鶴岡八幡宮)で、関東管領就任の儀式を執り行おうとしていました。

源氏の頭領『源頼朝』に、あやかろうとしたわけです。

 

つまり、この時の謙信の小田原包囲は、『我こそ正当なる関東管領である!』という一種のデモンストレーションであり、関東の諸将10万を引き連れ、その威厳を示すことが目的でした。

 

結果的に謙信は、小田原城を落城させることなく越後へ帰って行きます。

背後で武田信玄が動き出したからです。

 

よく謙信が小田原城を落とせなかった原因として、10万の大軍だったから兵站が切れたとか、北条氏康の実力とか、小田原城が堅城だったと言われます。

 

それも間違いではありませんが、そもそも謙信自身に小田原城を落とす気が無かった。

これが一番の要因です。

そして、背後の武田信玄が怪しい動きをしていたからです。

 

小田原城の目の前で弁当を食い始めたのも、一種のデモンストレーションであり、関東管領としての威厳を示すためのものです。

 

ここに謙信の性格を見ることが出来ます。

 

 

上杉謙信の名言が語る行動力

このように、謙信は権威とが形にこだわる一面を持っています。

 

実際、謙信はこの数年前に上洛し、室町幕府将軍『足利義輝』にも謁見して、幕府の再興を約束しています。

 

天下統一というと全国を支配下に治めて頂点に立つことのように思われがちですが、この当時の天下とは『京都とその周辺を制すること』です。

つまり『天下』=『京都』です。

決して全国制覇が天下統一ではありません。

 

ちょっと話がそれますが、本来の『天下』という意味で言えば『三好長慶』なんかは天下を制したと言えるでしょう。

 

そういった意味では、上杉謙信は天下を制する一歩手前まで迫っていたとも言えます。

 

ですが謙信の場合、どうしても室町幕府が前提となります。

関東管領と同じように、やはり既存の権威を重んじる傾向があります。

 

なお当時の天下統一感に関してはコチラの記事をご覧ください。

戦国時代の真実と織田信長の先進性!天下統一なんて誰も目指していなかった
...

 

後に、今川義元や武田信玄も上洛しようとしてますが(諸説あり)、それに先駆けて京に上ったのが謙信です。

 

まだ群雄割拠の真っただ中で、どこの大名も近隣諸国とドンパチやってる中、権威を重んじ真っ先に上洛した謙信の行動力。

 

こういう謙信の性格にこそ、その名言の本質を見ることが出来るように感じます。

 

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軍人 上杉謙信

最後に、個人的な謙信像についてお話します。

 

戦国大名というのは、政治家と同じです。

上杉謙信の場合、現在でいう所の新潟県知事みたいなものです。

 

ですが、謙信は政治家と言うより、軍人気質な人物だったとかなと感じています。

 

第四次川中島の戦いで、武田軍の作戦(啄木鳥戦法)を見破り、信玄に鶴翼の陣を取らせた先見力。

そして、圧倒的な強さを見せた車懸の陣。

 

手取川の戦いで、柴田勝家率いる織田軍を完膚なきまでに叩きのめした指揮能力。

 

そして、戦の前には毘沙門堂に籠り戦略を練っていたというエピソード。

 

この軍人気質こそ、強くてカッコイイ謙信の最大の魅力なんじゃないかなと思います。

 

謙信以外の戦国武将列伝はコチラです。

戦国武将エピソード集!名言!武勇伝!かっこいい男たちの逸話辞典
...

 

では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。