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拓麻呂です。
兜にあしらった『愛』の前立てで有名な『直江兼続』。
その前立ての『愛』によって、兼続は『愛の武将』と言われています。
また、『民を愛する』という意味から『義の武将』と言われることもあります。
つまり兼続が兜に込めた意味は『愛民』や『仁愛』と言ったような、兼続が名君であったことの象徴が『愛』というようなイメージです。
確かに兼続は名君であり名将でした。
しかし、戦国時代における『愛』という字が意味するものは、現代の『愛』とは全く異なります。
戦国時代の『愛』とは一体何だったのか?
兼続はなぜ『愛』の一字を前立てにあしらたのか?
直江兼続の『愛』の真相に迫ります。
直江兼続の『愛』
戦国時代の『愛』の意味
現代の『愛』とは、人を愛するというような、いわゆる恋愛要素的で可憐なイメージで使われることが多いかと思います。
しかしながら、このイメージは明治期になって、英語を日本語に翻訳するために『LOVE』を『恋愛』と訳したことに始まる、いわば近世になって定着したイメージです。
『科学』『自由』『芸術』なども、この頃に作られた言葉です。
では、明治以前の『愛』が持つ意味は何だったかと言うと、『愛欲』『愛撫』『愛着』といったような、人間の欲情を表現する言葉でした。
『人を愛する』『民を愛する』というような、現代の『愛』よりも欲にまみれた性的な意味を持っていたのが戦国時代の『愛』です。
当時の感覚からすれば、兜の前立てに『愛』をあしらうのは、性的な欲情を意味してしまって、恥ずかしい感じになってしまいます。
なので、兼続の『愛』には、もっと別の意味が込められているのが現実なのです。
兼続が『愛』に込めた本当の意味
では、兼続はなぜ前立てを『愛』にしたのでしょうか?
答えは、兼続が信仰していた『愛染明王』や『愛宕権現』に由来しています。
つまり、『愛染明王』『愛宕権現』の頭文字の『愛』を前立てに採用したということになります。
これは、戦国時代ではよくある話で、例えば兼続の若かりし頃の上杉家当主『上杉謙信』は、生涯に渡り『毘沙門天』を信仰していました。
そのことから、謙信は『毘』の一字を染め抜いた旗印を採用していました。
また伊達政宗の家臣『片倉重長』は、自軍の陣『愛宕大権現』と大書していたと言われています。
兼続の感覚では、上杉家の先代である謙信の『毘』にあやかって『愛』を選んだというのが真相なのではないでしょうか。
名将!直江兼続
実際の所、兼続は本当に義の武将だったかは謎です。
少なからず上杉謙信の影響があると思うので、『義』を重んじていた可能性はありますが・・。
僕が思う兼続像は、どちらかというと肝っ玉の据わった豪快な性格の持ち主。
兼続は上杉の家臣なので、秀吉から見ればいわば家臣の家臣(陪臣)です。
にも関わらず、秀吉から高く評価されて大名への格上げの話があった時も、あくまで上杉の家臣であることを理由に断ります。
また、徳川家康から上杉家が睨まれた際に、家康に対して反論した『直江状』の存在。
秀吉や家康に対しても、臆することなく自身の考えを主張する肝っ玉の持ち主。
それが僕の直江兼続像です。
義の武将だったかわ分からないけど、度胸の据わった武将であったことは間違いないのではないでしょうか。
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では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。