清少納言が仕えた『藤原定子』と、紫式部が仕えた『藤原彰子』
ともに藤原氏の出身であり、一条天皇に嫁いだ女性です。
なんとなく区別がしづらく、どっちがどっちだか分からなくなってしまうこともあるようです。
今回は、そんな定子と彰子の違いと、それぞれの性格に迫ってみたいと思います。
定子と彰子が生きた時代
まずは定子と彰子が生きていた時代と年齢差を確認してみましょう。
定子の生きた時代は、
西暦977年~1001年
彰子の生きた時代は、
西暦988年~1074年
定子の方が10歳以上も年上です。
なお、定子は24歳という若さで崩御したのに対し、彰子は87歳まで生きました。
定子と彰子の父親とそれぞれの関係
次は定子と彰子の関係を見ていきましょう。系図は以下の通りです。
このように、定子の父親は
一方、彰子の父親が摂関政治で有名な
藤原道長
です。
父親が兄弟なので、定子と彰子は『いとこ』の関係となります。
そして、定子と彰子は共に『一条天皇』に嫁いでいます。
なお、定子に仕えた女房が
枕草子の作者 清少納言
彰子に仕えた女房が
源氏物語の作者 紫式部
です。
定子と彰子、そして清少納言と紫式部それぞれの関係の詳細はコチラの記事をご覧ください。
定子と彰子の性格
では、定子と彰子の性格を見ていきましょう。
定子の性格
定子の性格は、清少納言が書いた枕草子の内容から何となく想像することが出来ます。
宮廷出仕を始めたばかりで緊張しまくっている清少納言を気遣ったり、時には調子に乗りすぎた清少納言を諫めたりいているので、宮廷女性のトップとして非情にしっかりとした女性だったようです。
しかしながら、時にはジョークを言うような、砕けた一面もあったようで、枕草子にも定子が放った冗談(原題で言うところのダジャレに近い)が記されています。
こうした定子の明るい性格と、ちょっと砕けた印象が、清少納言を含む女房たちにも浸透していたからこそ、枕草子からはたくさんの笑顔や明るい雰囲気が伝わってくるのかもしれません。
定子の周囲はいつも笑いが絶えない明るい雰囲気が漂っていたのでしょう。
こちらの記事で、定子の人物像がわかるエピソードをご紹介していますので、ぜひご覧になってみてください。
↓清少納言が初出仕した時の定子の優しさがわかるエピソードがコチラ↓
↓定子が知的なジョーク(ダジャレ)が炸裂するエピソードがコチラ↓
彰子の性格
では、彰子の性格はどうだったのでしょうか?彰子の性格は紫式部の記した『紫式部日記』から読み取ることが出来ます。
紫式部日記によると、彰子は大人しくかなり控えめな性格だったようです。
実際、紫式部日記にも
彰子様はたいへん奥ゆかしい性格ですが、少し遠慮しすぎるところがあります。
と、ハッキリと書き残しています。
そして、彰子が一条天皇に嫁いだのは、わずか12歳の時で、まだまだ子供。
一条天皇は定子に夢中だったようで、大人しい彰子には全く振り向いてくれなかったようです。
ですが、彰子は一条天皇に振り向いてもらうため、一条天皇が好んでいた漢詩の講義を紫式部に依頼します。教養を身に着け、一条天皇に認めてもらいる女性になろうとしていました。
また、彰子は男女間のだらしない付き合いを嫌っていたり、後年になると父の藤原道長の強引な政治に反発したりしています。
彰子は大人しく控えめな性格ながらも、一条天皇に振り向いてもらおうと必死に努力した彰子は、とても真面目でコツコツと前に進んでいく努力家であり、また、真っすぐで清廉潔癖な性格をしていたのでしょう。
定子と彰子はライバルだったのか?
定子と彰子は立場上、ライバルのような印象を持たれやすいですが、実際はどうだったのでしょうか?
確かに、定子の兄「藤原伊周」と、彰子の父「藤原道長」が政治的なライバル関係にはあったので、定子と彰子も立場的にはライバルと言えなくもありません。
ですが、定子亡き後の彰子の行動を見ていると、当人たちはお互いをライバル視していたわけではないとも考えられるのです。
一条天皇が深く愛した定子は、若くしてこの世を去ります。定子の逝去に伴い、名実ともに彰子が正式な一条天皇の妻となりました。
ところが彰子は、定子の産んだ子供(敦康親王)を引き取り、立派に育てあげており、藤原道長が定子の子(敦康親王)を差し置いて、彰子が産んだ子(敦成親王、後の御一条天皇)を皇太子にしたことに対し、不満を感じていたと記録されています。(栄花物語)
確かに、皇位継承順位は先に生まれていた「敦康親王」の方が高いです。
しかしながら、敦康親王を差し置いて、彰子自身の子である「敦成親王」が皇太子になったことに不満を持っていたというのは、かなり厳格な考え方であり、定子&敦康親王に対する義理堅さも感じられるのではないでしょうか。
いとこでもあり、先に一条天皇に嫁いだ定子の子供を養育し、父のやり方に反発していた彰子。そこに、二人のライバル関係を見ることはできません。
一方、定子が彰子をどう思っていたのかは、明確な記録や逸話がないのでよくわかりません。
結果的には、定子が没落していく中で、藤原道長&彰子親子が台頭してくるので、悔しい感情を抱いていた可能性はあるかもしれません。
しかし、定子が没落していく最中の時期を記した枕草子には、悲観的になっている定子の姿は全く描かれていません。
枕草子は清少納言の感情も入り混じっている作品なので、マイナスなことは書かないという執筆方針があった思われますが、いずれにしても彰子と定子はお互いにライバル意識は持っていなかったのかなと考えています。
なお、枕草子の執筆方針に関しては、コチラの記事で詳しく解説していますので、ぜひご覧になってみてください。
彰子の思いやり
立場的なイメージから、どうしてもライバルとされがちな定子と彰子ですが、決してお互いを蹴落とし合うような関係ではありませんでした。
そこには、政争に翻弄されながらも、気高き姫君として、凛とした姿で多くの人々から憧れの眼差しを集め続けていた定子と彰子の姿を、思い浮かべることが出来るのではないでしょうか。
また、こういったライバル関係の図式は、清少納言と紫式部にも当てはまります。しかしながら、清少納言と紫式部も個人的なライバル関係だったかというと、ちょっと違うのかなと考えられます。
清少納言と紫式部は本当にライバルだったのか?といった考察も以下の記事で行っていますので、ぜひご覧になってみてください。
この他にも、枕草子や源氏物語など同時代の王朝文学や、宮廷で活躍した女性たちを多数記事にしてあるので、ぜひ↓コチラ↓からご覧になってみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考にした主な書籍】