藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)は、藤原道長の大出世に重要な役割を果たした女性で、紫式部や清少納言の時代を語る上で絶対に避けては通れない人物です。
そんな藤原詮子の人物像やエピソードを、家系図を交えながらわかりやすくお伝えしていきます。
藤原詮子の家系図
まずはコチラの家系図をご覧ください。
藤原詮子は藤原兼家&時姫夫妻の娘で、藤原道長の姉にあたる人物です。
また、清少納言が仕えた定子、そして紫式部が仕えた彰子は姪っ子に当たります。
そして、何より特筆すべきが、第64代の天皇である円融天皇(えんゆうてんのう)の女御であり、第66代 一条天皇の母親でもあるという点でしょう。
(つまり、定子&彰子と一条天皇は、いとこ同士の結婚だったことになります)
なお「女御(にょうご)」とは、天皇の2番目の妻(複数人存在)のことなので、いわゆる正妻ではありません。
しかしながら、円融天皇の皇子は懐仁親王(やすひとしんのう、後の一条天皇)だけでした。
つまり、数人いた円融天皇の妻の中で、皇子を産んだのは詮子ただ一人だったのです。
結果、後に懐仁親王(一条天皇)が天皇に即位したことで、詮子は国母となり大きな存在感を示していくことになるのです。
藤原道長推しの詮子と長徳の変
長徳元年(995年)、藤原詮子の兄であり政界のトップに君臨していた藤原道隆が亡くなり、さらにその後を継いだ藤原道兼が相次いで世を去りました。
その結果、次の権力の座を巡って、詮子の弟「藤原道長」と、詮子の甥っ子(道隆の息子)「藤原伊周(これちか)」が争うことになります。
この一連の争いの中で起こった事件を「長徳の変」といいます。
長徳の変の詳細は下記の記事に譲りますが、結果的には藤原道長が勝利し、いわゆる摂関政治が全盛期を迎えていくことになります。
一応、長徳の変に関わる人物の相関図を添付いたしますので、ザックリ把握したい方はぜひご覧ください。
詮子、大泣きして道長を推す
この道長政権が確立されていく途上で、詮子による大きなバックアップがありました。
詮子は大の道長推しだったことでも知られており、道長と伊周の政争の時にも、当然道長の味方になります。
以下、「大鏡」に記述のある内容を簡略化してお伝えします。
一条天皇は皇后(正妻)の定子を深く愛しており、定子の兄にあたる伊周を贔屓する状況でした。
これでは、道長は面白くありませんし、道長の姉の詮子も当然不満です。
藤原詮子このままでは伊周殿に権力の座が奪われてしまう・・・
一条天皇としては、口うるさい母の詮子を少々煙たく感じていたようで、詮子のところに出向いたりしなくなっていました。
そこで、詮子が一条天皇の説得に動きます。
詮子は一条天皇の寝所に押しかけ、涙ながらに道長への関白宣下お願いしまいた。
藤原詮子道長を権力のトップにしてください・・・
この時、道長は別の部屋でドキドキしながら待っていましたが、なかなか詮子は戻ってきません。
いよいよ絶望し始めた道長でしたが、ついに詮子が一条天皇の説得を終え寝所から出てきました。
寝所から出てきた詮子の顔は泣いて赤くなり、涙で濡れて光っていましたが、口元は満足そうに微笑して、
藤原詮子やっと認めてくださいました
と申されました。
このような詮子のフォローもあり、藤原道長は出世の糸口を手に入れたのでした。
これは妄想ですが、押しかけてきた母親に泣きながらお願いされた一条天皇の心中は、かなり複雑なものだったのではないでしょうか。
日本史上初の前例を作った藤原詮子
藤原詮子は、とある件で日本で初の例を作った人物でもあります。
冒頭の家系図のところでも触れた通り、詮子は円融天皇の女御であり、天皇の正式な妻である中宮や皇后ではありませんでした。
ですが、懐仁親王(やすひとしんのう、一条天皇)が天皇に即位すると、天皇の生母ということで女御から皇太后というポジションに昇華します。
実は、女御から皇太后になったのは詮子が初めての事例でした。
また、夫の円融天皇が崩御(ほうぎょ/天皇や皇后が亡くなること)した後、詮子は出家し、住まいの邸宅「東三条邸」に由来して「東三条院(ひがしさんじょういん)」と呼ばれるようになります。
この名称を「女院号」と言いますが、女院号を始めて名乗ったのも詮子は初めてです。
これ以降、例えば藤原道長の娘の彰子は「上東門院(じょうとうもんいん)」という女院号になりますし、もう少し時代が下った平安時代の終盤の鳥羽天皇の皇后 璋子は「待賢門院(たいけんもんいん)」の女院号で知られていたりします。
この、詮子から始まった女院号は、明治維新の頃まで続いていくことになるのです。
藤原詮子まとめ
以上、藤原詮子のエピソードや系図をご紹介しました。
詮子は弟 藤原道長の出世をバックアップしたことでも知られる一方で、一条天皇の生母てあるという強い立場を伴って政治介入することもしばしばあったため、当時の記録(藤原実資の小右記)で苦言を呈されてもいます。
一条天皇を涙ながらに説得したことからもわかる通り、個人的にはかなり強い圧を持った人物でもあったのかなと感じます。
いずれにしても、紫式部や藤原道長たちの時代の中心人物の一人であり、日本の歴史に大きな影響を与えた女性の一人と言って良いのではないでしょうか。
そんな詮子の弟 藤原道長の意外な人物像を集めたトリビア5選は、コチラからご覧になってみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考にした主な書籍】