藤原宣孝(ふじわらののぶたか)は、平安時代中期の男性貴族です。
知名度はあまり高くありませんが、源氏物語の作者 紫式部の夫として知られています。
そんな藤原宣孝とは一体どんな人物だったのでしょうか?また、紫式部とはどのように結ばれ、夫婦仲はどうだったのでしょうか?
実は、源氏物語の執筆に大きな影響を与えていた藤原宣孝をご紹介します。
年の差婚だった藤原宣孝と紫式部
紫式部も藤原宣孝も生年がわかっていないのですが、宣孝が紫式部よりも15~20歳くらい年上だったと考えられています。
結婚時の紫式部は29歳頃と見られているため、藤原宣孝は40代半ば~50代になろうかという年齢でした。当時としては親子ほどの年齢差があったと言っても良いでしょう。
そんな宣孝ですが、紫式部と結ばれる以前からすでに複数名の妻がおり、子供もたくさん授かっていまいた。しかも、その子供たちの中には20代になっている者もいました。29歳の紫式部からしてみれば、もはや兄弟姉妹といってもいい年齢です。
紫式部と藤原宣孝は、親子並みに年齢の離れた年の差婚だったのです。
ちなみに、藤原宣孝と紫式部には血縁上の繋がりもあり、「またいとこ(親同士がいとこ)」の関係となっています。
藤原宣孝の人物像
藤原宣孝に関する情報は決して多くはないので、限られた中から筆者が察するに、豪快で情熱的で女性好きな人物ではあったように感じます。
親子並みに年の離れた藤原宣孝と紫式部。
当時は複数の妻を持つことは普通でしたから、宣孝が特別と言うわけではありません。
ただ、詳しくは後述しますが、遠くの地にいた紫式部に熱烈なアピールをしていたという事実があり、女性関係に対してはかなり積極的なタイプだったと思われます。
また、宣孝の性格を表す興味深いエピソードが、清少納言の枕草子に記録されているのでご紹介します。
枕草子に登場する藤原宣孝
以下は、枕草子一一五段「あはれなるもの」に書かれている内容を、現代の言葉に置き換え一部抜粋したものになります。
金峰山(きんぷせん)にお参りに行くときは、どんなに身分が高い人でも地味な服装で厳かに詣でるものだと私(清少納言)は聞いていました。
ところが、藤原宣孝と言う人が、
藤原宣孝そんな地味な格好ではつまらんでしょう!地味な格好では蔵王権現様にも見つけてもらえないだろうし、美しい装束でお参りするのに不都合なことはありますまい!蔵王権現様も「粗末な身なりで参れ」などとは言わないはずですよ。
などとおっしゃって、紫や白のド派手なお召し物で登場したのです。しかも宣孝の息子(隆光)までもが、水色や紅という出で立ちで現れたものですから、お参りに行き交う人々の注目を酷く浴びていました。
人々は「今までこの参詣道でこんなに派手な出で立ちの者を見たことがない・・・」と驚いておりました・・・。
この逸話から察するに、藤原宣孝は周囲の目を気にするようなタイプではなく、陽気で豪放磊落な人物であったように感じます。
結婚までの経緯
次に、紫式部と藤原宣孝の結婚までの経緯と、結婚してからの夫婦仲を見ていきましょう。
二人が結婚したのは長徳4年(998年)、季節は晩秋の頃。
ただ、藤原宣孝の紫式部への求婚は、遡ること3年前?くらいから行われていたと見られいます。
しかも宣孝から求婚の最中、紫式部は父(藤原為時)の転勤に伴って越前(現在の福井県)に引っ越して約1~2年間を過ごしました。
その間も、宣孝からの求婚は途切れず、京都から離れた越前の地まで手紙を送り続けていたのです。
そして、紫式部は約1~2年を越前で過ごした後に帰京、藤原宣孝は晴れて紫式部を妻に迎えることになりました。
この時の紫式部は29歳。当時としては、かなり晩婚の部類に入ります。(清少納言や和泉式部の初婚は10代)
これは父親の為時が、長らく職に就けなかったことが原因と考えられますが、紫式部としては、婚期が遅れた自分に対し諦めずに求婚し続けてくれた宣孝に、いつしか心惹かれていたのかもしれません。
藤原宣孝と紫式部の夫婦仲
こうして新婚生活を迎えた藤原宣孝と紫式部。
はじめのうちは順調な結婚生活だったと見られ、子供も授かりました。この子供が「大弐三位」の女房名で知られる藤原賢子です。
ですが、しばらく経つと愛情も冷めてきたのか、藤原宣孝の態度に変化が見られるようになりました。
当時は「通い婚」という結婚形態で、夫が妻の元に通っていたのですが、宣孝は紫式部の元へあまり通わなくなっていったようです。
それを示す和歌が「紫式部集」に集録されているので一部をご紹介します。
紫式部しののめの 空霧わたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり
(夜明けの空に霧が立ち込め早くも秋の景色になってきました。あなたは早くも私に飽きてしまったのですね)
これは宣孝が紫式部の元に通わなくなった言い訳に対しての返歌で、紫式部の悔しい気持ちがよく表されています。
突然の別れ
紫式部と藤原宣孝の別れは突然やってきました。
長保3年(1001年)、宣孝は49歳で逝去。当時流行していた疫病によるものと考えられています。
わずか2年数ヶ月の結婚生活でした。
藤原宣孝が亡くなった際に詠んだと言われる和歌が、紫式部集にあるのでご紹介します。
紫式部見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦
連れ添った人が亡くなり,火葬され煙になってしまった夕暮れから、塩竈の浦という名所の名前が(煙を連想さるために)とても身近に感じられるのです。
源氏物語の起草
夫の突然の死で一人になってしまった紫式部。しかも紫式部には1~2歳の小さな娘(賢子)もいます。不安は相当なものだったでしょう。
そんな紫式部は悲しさや不安を紛らわすために、あることに没頭し始めました。それは物語の執筆。
この時に書き始めた作品が「源氏物語」だと言われています。
つまり、源氏物語とは藤原宣孝が亡くなったことを契機に書き始められた作品なのです。
最初は知人に読んでもらう程度だった源氏物語は徐々に話題となり、紫式部の存在は宮中にまで知れ渡っていきます。
そして、紫式部の人生に大きな転機が訪れ、思わぬ事態が彼女に降りかかるのですが・・・それはまた別のお話なので、気になる方はぜひコチラの記事もご覧になってみてください。

藤原宣孝と紫式部まとめ
以上、藤原宣孝の人物像や紫式部との結婚についてでした。
陽気で快活な人物だった藤原宣孝。
紫式部の父親(藤原為時)はとても堅物だったと言われています。そんな紫式部にとって、豪放磊落な宣孝の性格はとても魅力的に映っていたのかもしれません。
そして、宣孝が亡くなった寂しさを紛らわすために書き始めた源氏物語。
千年の時を超え今に伝わる源氏物語の原点が、藤原為時にあったと見ることもできるのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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【参考にした主な書籍】