藤原為時は、源氏物語の作者として有名な紫式部の父親にあたる人物です。
あまり知られていない人物ではあるのですが、実は娘の紫式部の性格に大きな影響を与えた人物としても知られています。
この記事では、
などを、興味深いエピソードも交えご紹介します。
藤原為時のプロフィールと家系図
まずは藤原為時の家系図をみてみましょう。
藤原為時の生年は天暦3年(949年)頃、没年:長元2年(1029年)頃とされています。
小倉百人一首に選出されている藤原兼輔の孫にあたり、紫式部の父親としても有名です。
ちなみに、為時が属する藤原氏は、いわゆる「藤原北家(ふじわらほっけ)」でした。藤原北家とは簡単に言うと、数ある藤原氏の中でも最も栄えた藤原一族の総称で、有名な人物には藤原道長などがいます。
そんな藤原北家の中の「良門流(よしかどりゅう)」という藤原良門を祖とする一族の子孫が藤原為時でした。
なので、藤原北家出身の為時の娘 紫式部も実は藤原北家の人物でした。つまり、紫式部と藤原道長は遠い親戚筋だったのです。
また為時は、師貞親王(後の花山天皇)の教育係を任されるなど、和歌や漢学に精通した人物でもあまりした。
とは言え、為時自身の階級は中流貴族くらい。京都の中央政界での出世には恵まれず、受領階級(ずりょうかいきゅう、現在の県知事みたいなもの)に甘んじていました。
なので一時期、越前守(現在の福井県知事みたいなもの)に任ぜられ、越前(現在の福井県)で暮らしていた時期もあったのです。この時、紫式部も越前に同行していました。
余談ながら、紫式部という名前の「式部」は、藤原為時が「式部丞」という職に就いていたことに由来しています。
藤原為時の性格
藤原為時の性格は、紫式部日記や今昔物語集などから察することができます。
その性格を簡単に言ってしまうと偏屈な堅物だったようで、その性格が紫式部にも大きく影響してしまったようなのです。
では、為時がどんな人物だったのか、いくつかのエピソードを確認してみましょう。
紫式部に放った心無い一言
まずは紫式部日記に記録されている藤原為時の人となりをご紹介します。
これは私(紫式部)が子供の頃のお話です。
藤原為時は息子の惟規(のぶのり/紫式部の弟)に、日々漢文の講義を行っていました。
それを傍ら聴いていただけの紫式部でしたが、なんと惟規よりも覚えが早く、惟規が忘れてしまった内容もすらすらと答えることができたのです。
その様子を見ていた為時は紫式部にこう言いました。
藤原為時残念だよ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだ・・・
この当時、基本的に漢文は男性が学ぶもので、女性があまりにも漢文に精通しているのは良くないという考えが一般的でした。
為時の発言にはこのような時代背景から発せられたものだと思われますが、なんとも無神経な発言とも感じますね・・・。
子供の頃の話を、大人になってからわざわざ日記に書いているくらいですから、悪い思い出として紫式部に心の中に深く刻み付けられていたのかもしれません。
この出来事が何歳の頃の思い出なのかは不明ですが、親に褒めてもらえれば絶対に嬉しい年頃だったと思われます。そんな年頃に浴びせられた親からの容赦ない一言は、紫式部の心に深く突き刺さってしまったことでしょう。
晴れの舞台をばっくれ
続いてもうひとつ紫式部日記からご紹介します。
ある日、帝(みかど/天皇)の前で催される音楽を演奏する機会があり、その演奏者に藤原為時が抜擢されました。
しかし、あろうことか為時は演奏もせずに帰ってしまったのです。
そんな為時の行為に対し、藤原道長様は私(紫式部)にこうおっしゃいました。
藤原道長どうしてお前の父は晴れの舞台で演奏もせずに帰ってしまったのだ?お前の父は偏屈者だ!親の代わりにお前が和歌を詠みなさい!!
このように藤原為時は、天皇の御前で演奏すると言う栄誉を自ら放棄してしまったのです。
なぜ為時がこのような行為に及んだのかについては日記で言及されていないので不明ですが、周囲の人たちからしてみれば正しく「偏屈者」と呼べるような行為だったのでしょう。
なお、この時の藤原道長は酒に酔っぱらっていたようで、紫式部に和歌を詠むことを強要していたりもします。
紫式部にしてみれば父の行為ばっくれのせいで、とんだ迷惑を強いられたと言っても過言ではありません。
念願の越前守に就任
続いては、「今昔物語集」「古事談」「十訓抄」といった複数の書物に残されているエピソードを、わかりやすく噛み砕いてご紹介します。(ここでは今昔物語集から引用)
藤原為時は受領(ずりょう/現在の県知事みたいな地位)になることを望んでいました。
しかし、人事の発表があった際、空きが無いという理由で為時の申請は却下されてしまったのです。
藤原為時は深く悲しみましたが、翌年の人事の際、女官を通じ受領になれるようお願いする文書を一条天皇の差し出します。
為時は漢学に優れた人物であり、文書には次のような漢詩がしたためられていました。
【苦学の寒夜、紅涙襟を霑す、除目の後朝、蒼天眼に在り】
※夜の寒さに耐えながら勉学に励んだけれど受領になれませんでした。疲労と失望で血の涙が出て着物の襟を赤く濡らしました。しかし翌朝、眼に染みるような青空(一条天皇からの恩恵)をあおぎ見るように、人事の修正で望みが叶い、晴れ晴れとした気分になりたいものです。
文書を受け取った女官は、この詩を一条天皇に見せようとしたのですが、天皇がお休み中だったのでご覧になっていただけませんでした。
その後、藤原道長様が人事の修正のために宮中へ上がり、一条天皇に為時の文書のことを伝えたのですが、天皇は文書をご覧になっていないとのことです。
不思議に思った藤原道長は、文書を預かっていた女官に尋ねたところ、
女官天皇がお休みしていたため、ご覧になっていただけませんでした
とのことでした。
藤原道長はすぐに文書を取り寄せ、一条天皇にご覧になって頂いたところ、天皇の心は深く揺り動かされました。
その結果、道長は自分の乳母子が任命される予定だった「越前守」の地位を、為時に与えたのです。
この出来事は、漢詩によって人事変更が行われたと、世間では大きな話題を呼んだと伝えられています。
この逸話は、為時の出世が描かれたいかにもドラマチックなエピソードなのですが、実はもっと現実的な状況が背景に存在していたとも言われています。
一説によると、この時、宋(そう/現在の中国のあたりにあった国)の商人が越前に滞在していたため、その対応として漢才に優れた藤原為時が越前守に抜擢されたそうなのです。
紫式部に与えた影響
ここまで、藤原為時の人物像を見てきました。
紫式部に心無い一言を放ったり、藤原道長に「偏屈」と言われてしまったように、ちょっと捻くれた頑固者のような人物だったのでしょう。
この性格が少なからず紫式部にも影響してしまったのか、彼女も決して朗らかとは言い難い人物だったことが「紫式部日記」によて明らかになっています。
この紫式部の性格は、よくライバル視される清少納言とは正反対です。
実は清少納言の父親(清原元輔)は、周囲に笑いを振りまく明るい禿げ頭のオヤジだったようで、こちらも清少納言の性格に影響を与えたと言われています。
紫式部と清少納言、平安時代を代表する女流作家2人がともに父親の影響を受け、まったく正反対な性格に育ったというのも、とても面白いことなのかなと感じますね。
藤原為時の人物像まとめ
以上、紫式部の父親 藤原為時についてでした。
紫式部に「お前が男だったら・・・」などと言ってしまったり、晴れの舞台を放棄して藤原道長に「偏屈者」呼ばわりされたりと、かなり癖のある人物だったのは間違いなさそうです。
そして、その性格が紫式部に影響を与えたであろうことも本文で触れた通りです。
ただ、紫式部が漢才に優れたいたのも、彼女の幼少期に為時が惟規に行っていた講義を盗み聞きしていたからであり、その教養が源氏物語の執筆、そして宮仕えでの活躍へと繋がっていくのです。
そう考えると、藤原為時が父親として紫式部に与えた影響は、とても大きかったと言えるのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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