平安時代を代表する2人の女性。
『清少納言』と『紫式部』
ほぼ同時代を生き、似たような身分の出身で、同じ仕事を経験し、共に後世に残る文学作品を残した彼女たちは、とても似た境遇で育ってきました。
にも関わらず、彼女たちの残した文学作品を読んでみると、二人の性格は180度違います。
清少納言は、おしゃべりで明るく朗らかな天真爛漫な性格。
紫式部は、目立つことを嫌う、どこか影のある性格。
そんな二人の性格の違いの原点。
それは、彼女たちを育て上げた父親の教育方針の違いにありました。
それぞれの父親が、それぞれをどのように育てあげたのか?
今回は、彼女たちの父親の教育方針の違いを比較しながら、清少納言と紫式部の性格の違いを紐解いてみたいと思います。
清女と紫女の育った環境
清少納言の父親『清原元輔』
清少納言の父親は『清原元輔(きよはらのもとすけ)』という人物です。
歌人としても著名で、和歌の上手な36人を集めた『三十六歌仙』の一人にも名を連ねています。

その和歌の詠みっぷりは相当なものでして・・・、父の名声を汚してはならぬと、私は和歌に苦手意識を持っていました・・・。
そんな元輔には、こんなエピソードが残っています。
加茂祭で、馬に乗っていた元輔は落馬してしまいました。
その時、頭にかぶっていた烏帽子が脱げて、元輔の光り輝く禿げ頭が露わになります。当時、人前で烏帽子を脱いで頭をさらけ出すと言うのは、現代で言う所の人前でパンツを脱ぐような恥ずかしい行為とされていました。
祭りの見物客が唖然とする中、元輔は烏帽子をかぶり直しもせず、自らが禿げ頭だったせいで烏帽子がツルっと脱げてしまったことを、周囲に説明し始めました。
すると周囲は大爆笑に包まれました。
この逸話から、元輔は自らの禿げ頭をネタにしてピンチを切り抜けるような、ユーモアの持ち主だったことが分かります。
枕草子を見てみると、清少納言は明るくて図太く、さらに少しおっちょこちょいな性格をしていたような印象を受けます。
おそらく、この性格は父の元輔譲りではないだろうかと思われます。
また清少納言は、元輔がかなり高齢に(50代後半と思われる)なってからの子供で、しかも末っ子でした。
元輔からすれば祖父と孫のような年齢差で、とても可愛がられて育てられたことが想像できます。
ピンチを笑いに変えるようなユーモアを持った元輔の影響、そして高齢での末っ子でとても可愛がられて育ったこともあって、清少納言の明るく朗らかで図太い性格が育まれたのではないでしょうか。
紫式部の父親『藤原為時』
一方、紫式部の父親はどうだったのでしょうか?
紫式部の父親は『藤原為時(ふじわらのためとき)』と言います。

私は父から、かなり厳格な教育を受けて育ちました。
為時は紫式部の弟に、日々漢詩を教えていました。
姉の紫式部はその様子を見て、父の講義を盗み聞きしていたそうです。
すると紫式部はどんどん吸収していき、弟よりも漢詩の教養を身に着けてしまいました。
当時の常識として、漢詩は男性が身に着けるもので、女性が嗜むものではないとされていました。
そんな紫式部に対し、為時はこんな言葉を漏らします。
『お前が男に生まれて来くればよかった・・・』
そんな父の影響もあってか、紫式部は漢詩の知識をひけらかすことなく、主の彰子にもこっそりと漢詩の講義を行っています。
この辺は、主の定子と漢詩のやりとりを楽しんでいた清少納言とは全く逆です。
また、紫式部に宮廷出仕の要請が来た際も、彼女自身は乗り気ではありませんでした。
しかし、為時の相当な後押しがあり、結果的に紫式部は宮廷出仕を始めることになります。
この要請は、時の権力者『藤原道長』からのものであったこともあり、為時としては名誉を感じていたのかもしれません。
このような感じで、お堅い父親に育てられた紫式部は、ちょっと影のある控えめな性格に育っていったのではないでしょうか。
父親の影響を受けて育った二人の才女
このように清少納言と紫式部の性格は、父親の教育方針の違いに大きく影響されています。
二人には共通点も多いです。
- 中流貴族の出身
- 母親を早くに亡くす
- 女房として出仕
- 漢詩の教養がある
- 後世に残る文学作品を残す
ですが、その性格は正反対。
その違いこそが、それぞれの父親にありました。
共に母親を早くに亡くしているので、その分父親の影響が強かったのかもしれませんね。
以上、清少納言と紫式部の性格の違いは父親の教育方針にあった!でした。
枕草子の記述を元に、清少納言の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。

源氏物語の記述を元に、紫式部の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。

他にも、いろんな角度から二人を比較してみました。

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