清少納言(せい しょうなごん)が書いた『枕草子』。
枕草子は、清少納言の独特の感性が散りばめられていて楽しめるとともに、千年前の文化を伝える史料的価値の高さもあり、現在でも評価されています。
中でも彼女が仕えた中宮定子に関する記事は、清少納言と定子の笑い声が聞こえてくるような、底抜けに明るく華やかな日常が描かれています。
一方で、清少納言の自慢話とも受け取れる内容や、現代の価値観とは違った考えが書いてあったりもするので、鼻につく方も多い作品です。
このように好き嫌いの別れる作品ではあるものの、その執筆意図には「清少納言自身と定子が直面した悲劇が大きく関わっている」という事実をご存じでしょうか?
この記事では、
・清少納言が枕草子に込めた本当の想いとは何だったのか?
・清少納言が枕草子で伝えたかったことはなんだったのか?
といった内容をご紹介していきます。
本記事を読み終える頃には、枕草子の見え方が180度ひっくり返っていることでしょう。
清少納言と藤原定子の関係について

土佐光起画『清少納言図』(部分)/Wikipediaより
枕草子を読む上で、常に念頭に置いておきたい女性います。
その女性の名は『藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)』
定子様の存在を常に意識していないと、枕草子の真髄を味わうことが困難となります。
ゆえに、まず『定子』という女性と清少納言の関係性からお伝えしましょう。
定子様は、時の天皇である『一条天皇』のお后様です。
天皇のキサキの中で最も位の高い女性を『中宮(ちゅうぐう)』と言うため、定子様は『中宮定子(ちゅうぐうていし/さだこ)』と呼ばれる場合もあります。
この定子様に仕えていたのが清少納言です。
定子様は清少納言がお気に入りでしたし、清少納言も定子様を大いに慕っていました。
これは枕草子の記述からも明らかです。
中宮を含む高貴な人物に仕える女性を「女房(にょうぼう)」言います。
つまり「清少納言は中宮定子に仕えていた女房」であり、要するに主従関係です。
枕草子に書かれている内容は多岐に渡りますが、その中でも見所のひとつが定子の登場する回想録、つまり清少納言が宮廷で過ごした定子の想い出。
枕草子に登場する定子は、いつも笑顔を絶やさず、時に厳しく、時に優しく周囲に接する気高きお后様として描かれています。
この定子の姿は真実ではあるものの、実際には一定の虚構も含んでおり、この虚構の部分に枕草子の執筆意図、そして清少納言の強烈な想いが込められているのです。
枕草子が描く真実と虚構・・・
その核心に迫りながら、清少納言の想いと定子様の身に起こった悲劇を見て行きましょう。
中宮定子に降りかかる悲劇
一条天皇の中宮である定子様。
時の権力者であった父の藤原道隆、そして母の貴子、兄の伊周、弟の隆家、そして清少納言ら女房たちと雅で華やかな日々を過ごしていました。
この藤原道隆の一族を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と言います。
しかし、中関白家の栄華は長くは続きませんでした。
藤原道隆が43歳で逝去し、定子様は大きな後ろ盾を失ってしまったのです。
この時代、父親の権力による後ろ盾は非常に重要でした。その後ろ盾を失った定子様の立場は大きく揺らぐことになります。
藤原道隆の逝去後、その弟である(定子の叔父)である藤原道長が台頭し、定子の兄である藤原伊周(これちか)と時期権力者の座をかけ争います。
しかし、伊周の軽率な行動などにより、大勢は一気に道長へと傾いていきまいた。
この時の道長と伊周の政治的な対立を「長徳の変」と言います。

長徳の変により、伊周と隆家は京都から追放されることとなりました。
そして、伊周&隆家を捕縛する為、検非違使(けびいし※今で言う警察みたいなもの)が定子らの籠る屋敷に乱入、定子様は兄 伊周と手を取り合い、決して離れようとしなかったと伝わっています。
この時、動揺した定子様は自ら髪を切って出家してしました。
ここでの出家が、一条天皇の中宮という定子様の立場が疑問視されてしまう原因となり、定子様はさらに孤立していきます。
さらに長徳の変と同年に母の貴子も亡くなるなどの不幸も重なりました。
さらにさらに、藤原道長は自身の娘である彰子を一条天皇に入内(じゅだい※天皇と結婚するというような意味)させ、その権力地盤を確実に固めていきます。
権力を我が物にせんと、藤原道長は定子様に対して露骨な嫌がらせなどもしており、ますます定子様の立場は危なくなっていきました。

父も母も兄も弟も一気にいなくなってしまい、さらに出家と言う選択をしてしまった定子様は、一気にどん底へと落ちていったのでした。
中関白家没落の時、清少納言は何をしていたのか?
以上のように中関白家が没落していく中で、肝心の清少納言は一体何をしていたのでしょうか?
敬愛する主 定子様が危機的状況にある中、なんと清少納言は郷に帰省していたのです。
しかし、この帰省には明確な理由があります。
藤原道長が台頭していく中で、多くの貴族が中関白家から離れていき道長へ通じていきました。
清少納言は多くの貴族と親交があったため、彼女も道長陣営に寝返るのではないかと、周囲に疑われていたようです。
その結果、疑いの目で見られた清少納言は郷に帰って実家に籠っていました。
実は、この帰省時に枕草子は書き始められています。
そもそも、枕草子の執筆に使われた紙は、定子様から賜ったものでした。
定子が真っ白な紙に何を書こうか悩んでいた所に、清少納言が、

それならば枕でしょう!!
と言ったら自分が書くことになり紙を賜った、という逸話が枕草子の後書きに記されています。
この定子と清少納言のやりとりが『枕草子』というタイトルの由来にもなっているのですが、詳細は以下の記事で解説しています。

つまり、枕草子とは定子と清少納言が出会っていなければ書かれていなかった作品だったのです。
紙というのは、現代でこそ手軽に入手できますが、この時代はまだまだ貴重なものです。
そんな貴重な紙を主の定子から賜ったことは、清少納言にとってはとても名誉なことであり、非常に嬉しいことでした。
定子の苦境が書かれていない枕草子

藤原定子(出典:Wikipedia)
このように定子様が苦境に陥り、清少納言自身にも疑いの目が向けられた中で書かれた枕草子。
書かれたタイミング的には、定子様の苦境、そして中関白家が没落していく様子が書かれていてもおかしくはないのですが、そういった暗い話は基本的に書かれていません。
もちろん、枕草子に書かれている内容は、定子様没落時のことにも大きの紙幅を割いています。
しかし、定子様が登場するエピソードはいつも華やか、定子様の周囲はいつも笑いに包まれています。
一族が没落し、自身の立場も落ちぶれていたはずなのに、枕草子の定子様の周囲はいつも煌びやか。
本当は、悲しい顔をしていた時や、落ち込んでいた時もあったはず。
しかし、清少納言は、枕草子に定子様の落ちた姿は一切書きませんでした。
ここに、枕草子に込めた清少納言の想いと定子様の真実、そして虚構が生み出す儚き美学が隠されているのです。
真実と虚構が彩る雅な世界観
定子様と清少納言は、歴史的に見れば明らかに敗者です。
中関白家に代わって登場した藤原道長、その娘の彰子、そして彰子の女房であった紫式部。
彼らがこの後の宮廷の中心となり、歴史を作っていきます。
新たな権力者となった藤原道長にしてみれば、娘の彰子に立派な宮廷を作り上げてほしいと思うのは当然の思いでしょう。
となると、宮廷に根付いていた定子様が中心となり作り上げてきた華やかな宮廷文化は快く思えなかった。定子様が清少納言ら女房たちと作り上げてきた、煌びやかな歴史は抹殺されてもおかしくなかったのです。
しかし、枕草子が残ったことで定子様の歴史は後世に伝わりました。
ここに、清少納言が枕草子を書いた最大の理由が隠されているのではないでしょうか?
枕草子には、藤原道長も少しだけ登場します。
ですが、道長に対して直接的な非難などは特に書かれておらず、むしろ清少納言が好意をよせている男性として登場しています。

一見すると好き放題書いているように見える枕草子ですが、道長の権威を意識しない訳にはいかなかったのでないでしょうか。
中関白家の没落は見方によっては道長が原因でもありましたが、それを大々的に記録に残すことは憚られたはずです。
つまり、道長を否定することは出来ない、でも敬愛する定子様が作り上げた煌びやかな文化が確実に存在していたことを書き残したかった。
これが清少納言の真意だったのではないでしょうか?
定子も清少納言も、現実的には苦しい状況だったはずです。
しかし、枕草子は一切その苦境を語りません。藤原定子という素敵な女性が確かに存在し、華やかな宮廷を作り上げていた事実だけが語られています。
定子様の側近くに仕え、強い絆で結ばれていた清少納言だからこそ書けた定子様の一面も多くあるのではないでしょうか。

定子様は一条天皇のお后様であり、華やかな文化を作り上げた中宮であり、その事実はいかなることがあっても揺るがない。
煌びやかな定子様は、いつも笑顔でその気高さを決して失うことなく振る舞っていた。
これが、清少納言が見ていた藤原定子であり、清少納言にとっての真実です。
しかし、それだけではない一面があったであろうことは歴史が証明していますし、清少納言が定子様の闇の部分を知らなかったはずがありません。
ゆえに、枕草子の記述には虚構も含まれています。
では、虚構につつまれた枕草子の記述に価値はないのか?
決してそんなことはありません。
笑顔につつまれた雰囲気やその気風も定子様の一面だったのでしょう。
なにより、清少納言を含む女房たちが、定子様を盛り立て、かつての雅さを忘れずに、いかなる状況でも煌びやかに振る舞おうとしていたのかもしれません。
もちろん清少納言の個人の意思で、定子様の陽の部分だけを切り取った面もあるでしょうが、定子サロン全体が気高き気風を失うことがなかったからこそ、枕草子には定子様の笑顔だけが書かれているのではないでしょうか?
だからこそ枕草子からは、定子様や清少納言だけでなく、定子サロン全体から感じられるプライド、美学、そしてある種の哀愁を感じずにはいられません。
定子様の闇が書かれていないから枕草子には魅力がないのか?
違います。むしろで逆です。
定子様の闇が書かれていないからこそ、定子サロンから感じられるプライド、美学、哀愁があるのです。
だからこそ枕草子は美しく、千年の時を超えてその魅力を放ち続けていると言えるのではないでしょうか。
藤原定子の最期と一条天皇の愛
長徳の変で出家し、中宮の座を疑問視されていた定子様。
しかし、夫である一条天皇は定子様を愛し続けたと言われており、枕草子だけに書かれている二人の愛のエピソードも存在します。

そして、長徳の変から約5年後の長保2年(1001年)定子様は第三子を出産後に亡くなりました。
享年24
定子様の死というとても悲しい現実は、当然枕草子には書かれていません。
枕草子の真実まとめ
以上、清少納言が枕草子に込めた想いについてでした。
清少納言は、定子様が旅立たれたことをキッカケに宮仕えを辞めたと言われています。
慕い続けた定子様のいない宮廷に価値を見出せなかったのかもしれません。
定子様に仕えた数年間は、清少納言の人生が最高に輝いた瞬間でした。
定子様から賜った冊子に、明るく楽しかった想い出だけを書き残した清少納言。
そこには定子様を勇気づける目的があったのかもしれません。
悲しみに暮れる定子様を少しでも元気になってもらおうと・・・。
しかし、定子様が枕草子を目にしたのかどうかは、残念ながらよく分かっていません。
定子様を想い、明るく華やかな想い出だけを切り取った枕草子。
執筆から千年の時を経た今なお、藤原定子の時代が確実に存在したことを、後世の我々に伝えてくれます。
そういった意味では、枕草子とは清少納言と定子様が最後の最後に藤原道長に一矢報いた作品といえるのかもしれません。
枕草子を読む時は、清少納言の想いを意識して読んでみてください。そして、枕草子から聞こえてくる定子様と清少納言の笑い声に耳を傾けてみてください。
これまでとは全く違った印象で、枕草子を楽しむことができますよ!
最後までお読みいただきありがとうございました。
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【参考にした主な書籍】