今までの印象が覆る!清少納言が枕草子に込めた本当の意味と内容とは

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拓麻呂です。

世界最古の随筆集と言われる『枕草子』。

古典文学として高い評価を得ている作品です。

作者は清少納言、平安時代の女性です。

枕草子は、清少納言の独特の感性が散りばめられていて楽しめる、または千年前の文化を伝える史料的価値の高さもあり、現在でも評価されています。

清少納言としては、誰かに読ませるために書いていたわけではなかったようで、人を不愉快にさせるようなことを書いてしまったと、後書きで弁明しています。

なので、一見すると自画自賛する内容も多く、なんとなく鼻につく場合もあります。

ですが、枕草子が書かれた経緯や、当時の時代背景を知ることで、清少納言が枕草子で何を言いたかったのか?が見えてきます。

単なる日記文学に留まらない枕草子が、後世に伝えたもう一つの真実をお伝えします。

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清少納言の想いと枕草子の真実

清少納言と藤原定子

枕草子に接する上で、常に念頭に置いておきたい女性います。

その女性を『藤原定子(ふじわらのていし)』と言います。

定子の存在を意識していないと、枕草子は単なる古典文学になってしまいます。

なので、まずは定子という人物と、清少納言との関係を簡単にお伝えしておきます。

定子は、時の天皇である『一条天皇』の正妻です天皇の正妻を『中宮(ちゅうぐう)』と言うので、『中宮定子』と呼ばれることもあります。

この『中宮』という単語もキーワードになってきます。

この定子に仕えていたのが清少納言です。

歴史的な用語では、中宮を含む高貴な人物に仕える女性を『女房』と言います。

つまり、清少納言は『定子付きの女房』という立場になります。

女房は、主の身の回りのお世話、主へ来客があった時の取り次ぎなどを仕事にしていました。

また、中宮には漢詩の教養が求められていました。

なので、中宮の周りには、漢詩の知識がある貴族の娘が集められました。

上流貴族から下流貴族まで、様々な女性が集っていたようですが、清少納言は中流貴族の家柄だったと言われています。

清少納言は漢詩に精通した女性だったので、噂を聞きつけた宮廷から、定子の女房になるよう要請があったものと思われます。

そんな清少納言が書いた枕草子は、彼女が定子に仕えた約七~八年の出来事が書かれている作品で、随所に定子を賛美する内容が記されています。

所作や振る舞いが素晴らしいとか、容姿が美しいとか、なにしろ大絶賛しています。

また、定子としても、清少納言はお気に入りの女房だったようです。

この辺りの記述が、清少納言の自慢話と捉えられ、枕草子が煙たがられる要因です。

ですが、定子への賛美が書かれた当時の時代背景を知ることで、清少納言が枕草子で伝えたかったことの真実が見えてくるのです。

定子に降りかかる悲劇

定子の父親は『藤原道隆』といいます。

そして兄が『藤原伊周(これちか)』、弟が『藤原隆家』です。

父『道隆』、兄『伊周』、弟『隆家』、そして『定子』。

この一族を『中関白家(なかのかんぱくけ)』と言います。

定子の父『道隆』は、天皇に次ぐ『関白』という立場を手にした人物だったので、中関白家は宮廷での栄華を極めていました。

定子も、父の後ろ盾に支えられ、中宮として幸せに暮らしていました。

しかし、父の道隆が突然亡くなってしまいます。

酒の飲みすぎだったとも言われています。

道隆の後は、弟の『藤原道兼』が継ぎますが、道兼も数日後に亡くなります。

この道隆と道兼の逝去に乗じて、ある一人の男が頭角を現してきます。

『藤原道長』です。

道長が関白になって宮廷で権威を持つ為には、中関白家の定子の存在は邪魔でしかありません。

道長は空位になった関白の席を狙い、中関白家を没落させるために動き始めます。

これに待ったを掛けたのが、定子の兄である伊周(これちか)です。

ここに、伊周vs道長の政争が勃発します。

しかし、若年の伊周は、老獪な道長の策謀にハマり、京の都から追放されてしましました。

この時、一緒に罪に問われ、定子の弟である隆家も流罪になります。

道隆の死去、伊周と隆家の左遷。

父と兄弟の後ろ盾を失った定子は、宮廷での居場所が徐々に無くなっていきました。

なお、このタイミングで定子の実家が火事で全焼するという悲劇も起こっています。

様々な不幸に見舞われた定子は出家するのですが、道長は自分の地位を確固たるものにするため、さらなるダメ押しの一手を使ってきました。

『彰子の入内』です。(入内とは天皇に嫁ぐこと)

この時、定子は出家していたのですが、出家したとはいえ、一条天皇の中宮(正妻)は定子です。

しかし、道長は自身の娘である彰子を、強引に一条天皇の中宮に押し込みました。

つまり、一条天皇には正妻が二人いるという、異常な事態になってしまったわけです。

この時、定子は『皇后』、彰子は『中宮』という立場になりました。

とは言え、『皇后』と『中宮』は同じ意味なので、この異常事態を正当化する為のこじつけです。

彰子の入内によって、後ろ盾の無い定子は宮廷での居場所を失ってしまったのですが、一条天皇は定子を愛し続け、子供を授かります。

しかし、定子は出産がキッカケでこの世を去りました。

定子崩御により、藤原道長の権力は盤石となり、中関白家の栄華は潰えました。

清少納言は何をしていたのか?

このように中関白家が没落していく中で、清少納言は何をしていたのでしょうか?

基本的には定子の女房として、これまでと変わらず奉公していたようですが、一時だけ実家に帰っていた時期があります。

藤原道長が台頭していく中で、多くの貴族が中関白家から離れていき、道長へ通じていきました。

清少納言は多くの貴族と親交があったため、彼女も道長陣営に寝返るのではないかと、周囲に疑われていたようです。

謹慎させられたのか、自ら里に下がったのかは定かではありませんが、疑いの目で見られた清少納言は、里に帰って実家に籠っていました。

この時に書き始めたのが枕草子です。

そもそも、枕草子執筆に使われた紙は、定子から賜ったものでした。

定子が真っ白な紙に何を書こうか悩んでいた所に、清少納言が『紙を枕元に置いておき、その日に起こった楽しいこと』、『忘れられない素敵な出来事』を書いていきましょうと提案したら、自分が書くことになり紙を賜った、という逸話が枕草子の後書きに記されています。

なお、この時の清少納言と定子のやりとりが、『枕草子』というタイトルの由来でもあります。

この辺の詳細は、コチラの記事をご覧になってみてください。

枕草子という題名の意味や由来とは?枕に込めた清少納言と定子の想い
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紙というのは、現代でこそ手軽に入手できますが、この時代はまだまだ貴重なものです。

そんな貴重な紙を主の定子から賜ったことは、清少納言にとってはとても名誉なことであり、非常に嬉しいことでした。

ちなみに、里に下がっていた清少納言でしたが、定子からの帰還命令と追加の白い紙が届き、宮廷に戻っていきました。

定子の苦境が書かれていない枕草子

このように、定子が苦境に陥り、自身にも疑いの目が向けられた中で書かれた枕草子。

書かれたタイミングで言えば、定子の苦境や、中関白家が没落していく様子が書かれていても良さそうなものですが、そういった暗い話は一切書かれていません。

定子が登場するエピソードは、いつも華やかで定子と女房たちの笑いで包まれています。

ここに枕草子の持つ真実が隠されています。

定子と清少納言は、歴史的に見れば明らかに敗者です。

中関白家に代わって登場した藤原道長、その娘の彰子、そして彰子の女房であった紫式部。

彼らがこの後の宮廷の中心となり、歴史を作っていきます。

定子が中心となり作り上げてきた華やかな宮廷文化は、道長からすれば快く思えなかったはずです。

定子が清少納言ら女房たちと作り上げてきた、煌びやかな歴史は抹殺されてもおかしくありませんでした。

しかし、枕草子は定子の歴史を後世に伝えました。

ここに、清少納言が枕草子を書いた最大の理由が隠されていると考えています。

枕草子には、道長も少しだけ登場します。

ですが、道長に対する誹謗中傷は一切なく、むしろ好感度の高い男として登場しています。

一見すると好き放題書いているように見える枕草子ですが、道長の権威を意識しない訳にはいかなかったはずです。

中関白家の没落は、言ってしまえば道長の陰謀であり、それを大々的に記録に残すことは憚られたはずです。

つまり、道長を否定することは出来ない、でも尊敬する定子が作り上げた文化が確実に存在していたことを書きたかった。

その結果、定子との楽しかった想い出だけが切り取られているのではないでしょうか。

定子が真っ白な紙に何を書こうか迷っていた時のやりとり、もう一度思い出してみてください。

『その日に起こった楽しいこと』『忘れられない素敵な出来事』

これが、清少納言のもともとの提案です。

そして、この提案が定子に認められ、清少納言が想い出を書くことになりました。

楽しいことを書くという、枕草子の執筆方針です。

定子も清少納言も、現実的には苦しい状況だったはずです。

しかし、枕草子は一切その苦境を語りません。

定子がそこに存在し、華やかな宮廷を作り上げていた事実だけが語られています。

権力者が変わった時、前の権威は否定されるのが歴史の常です。

大陸の歴史などは特に顕著です。

これは想像ですが、大陸の文化である漢詩にも精通していた清少納言は、そのことを理解していたのかもしれません。

政権が変わったことは、正史として多くの史料が伝えてくれます。

しかし、敗者の歴史は歪曲して伝わります。

枕草子が残ったことで、僕たちは定子の華やかな歴史を知ることができます。

道長の栄華を伝える史料、日記、物語は複数現存しています。

しかし、僕の知る限り、定子の栄華を克明に伝える史料は枕草子だけです。

だからこそ清少納言は、定子の栄華が確かに存在した歴史を、記録に残そうとしたのかもしれません。

枕草子は、定子に捧げるために書かれたものだったのかもしれません。

枕草子とは、最後の最後で定子と清少納言が、藤原道長に一矢報いた作品。

同時代の他の日記文学とは、一線を画する深い意味が込められた作品。

そんな枕草子は、単なる日記とは違う性格を持った作品だと、僕は想っています。

清少納言と枕草子から学ぶこと

清少納言は定子の没落期から枕草子を書き始め、定子が亡くなった後も執筆を続けています。

基本的には楽しかったこと想い出が書かれている枕草子ですが、時折、遠回しに悲しい心情を覗かせています。

かなりの信頼関係で結ばれていた定子と清少納言。

執筆作業が辛い時もあったのではないかと思います。

でも、この逆境が清少納言のエネルギーになっていたとも思います。

一貫した信念で定子との楽しかった想い出を書き綴った清少納言ですが、その裏側には悲しみ、悔しさ、絶望感など、様々な感情が入り混じっていたはずです。

そういった負の感情をエネルギーとして、定子の歴史を記録に残すために執筆をつづけていたのではないでしょうか。

負の感情は、一般的にはあまり良いものとはされませんが、使いようによっては行動する為の原動力になります。

清少納言はこのエネルギーを原動力にして枕草子を書き上げました。

人間は『こうなりたい』という感情よりも、『こうなるのは嫌だ』という感情の方が、力が発揮できるものです。

会社の人間関係が辛い、仕事に行きたくない。

こういった悩みを持っている方も多いと思います。

そんな時は、清少納言が枕草子を書いたのと同じように、負のエネルギーを利用して環境を変える行動をしていただければなと思います。

この他にも枕草子や清少納言に関する記事を書いていますので、ご覧になってみてください。

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