大河ドラマ「光る君へ」キャスト一覧&相関図【登場人物のおもしろエピソードもご紹介】

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大河ドラマのこと

この記事では、2024年にNHK大河ドラマ「光る君へ」のキャスト一覧と、登場人物の相関図をご紹介します。

また、ドラマをさらに楽しく視聴するための、各登場人物の簡単な豆知識や興味深いエピソードなどをお伝えしていきますので、ぜひご活用くださいませ。

 

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「光る君へ」キャスト一覧

『光る君へ』に登場する主要キャスト一覧です。

煩雑さを避けるため、実在の人物に絞って相関図を作成しており、ドラマオリジナルの人物は省略しております。

また、全人物をひとつの相関図にまとめるのは困難と判断したため、カテゴリごとに分割しております。

 

①紫式部の家族たち

紫式部
吉高由里子さん

藤原為時(紫式部の父)
岸谷五朗さん

ちはや(紫式部の母)
国仲涼子さん

藤原惟規(紫式部の弟)
高杉真宙さん

藤原宣孝(紫式部の夫)
佐々木蔵之介さん

 

②藤原道長の親族たち

藤原道長
柄本佑さん

藤原兼家(道長の父)
段田安則さん

時姫(道長の母)
三石琴乃さん

源雅信(道長の義父)
益岡徹さん

藤原穆子(道長の義母)
石野真子

源倫子(道長の正妻)
黒木華さん

源明子(道長の妻の一人)
瀧内公美さん

藤原道隆(道長の兄)
井浦新さん

藤原道兼(道長の兄)
玉置玲央さん

藤原詮子(道長の姉)
吉田羊さん

藤原彰子(道長の娘)
見上愛さん

藤原頼道(道長の息子)
渡邊圭祐さん

藤原寧子(道兼の妻の一人)
財前直見さん

藤原道綱(道長の異母兄)
上地雄輔さん

 

③中関白家と周辺の人たち

藤原道隆(道長の兄)
井浦新さん

高階貴子(道長の義姉)
板谷由夏さん

藤原定子(道長の姪)
高畑充希さん

藤原伊周(道長の甥)
三浦翔平さん

藤原隆家(道長の甥)
竜星涼さん

清少納言(定子に仕える女房)
ファーストサマーウイカさん

 

④天皇と周辺のひとたち

円融天皇
坂東巳之助さん

花山天皇
本郷奏多さん

一条天皇
塩野瑛久さん

三条天皇
木村達成さん

藤原忯子(花山天皇の妻の一人)
井上咲楽さん

 

⑤その他の人物

赤染衛門(倫子と彰子の女房)
凰稀かなめさん

藤原実資
秋山竜次さん

藤原公任(四納言の一人)
町田啓太さん

藤原斉信(四納言の一人)
金田哲さん

藤原行成(四納言の一人)
渡辺大知さん

源俊賢(四納言の一人)
本田大輔さん

藤原頼忠兼家の従兄弟でライバル)
橋爪淳さん

藤原顕光道長の従兄弟)
高橋光臣さん

藤原義懐花山天皇の叔父)
高橋光臣さん

安倍晴明
ユースケ・サンタマリアさん

 

「光る君へ」登場人物の豆知識

光る君へに登場する人物たちの興味深いエピソードやトリビアをお伝えしていきます。

ここでご紹介する内容は、史実に沿ったなりますので、「ドラマではどのように描かれるのか」といった観点で見ていくと、より楽しめるかと思います。

 

なお、史実に沿ってご紹介する都合上、ドラマのネタバレになる可能性がある内容を含みますので、自己責任の上お読みいただけると幸いです。

 

紫式部

名前:むらさき しきぶ
生没年不明(一説には天禄元年(970年)頃~ 寛仁3年(1019年))

紫式部は、源氏物語の作者として有名な人物です。

藤原道長の娘である彰子に仕えていました。

 

また、紫式部日記という作品も書いており、この日記からは紫式部の人物像や当時の宮廷の雰囲気などが伝わっています。

 

実は、この紫式部日記のある一部の記述が「清少納言をライバル視していたと」言われる原因です。

かなり辛辣に清少納言を批判していますので、どんなことが書かれているかを確認したい方は、コチラをご覧ください。

紫式部と清少納言は仲が悪い?紫式部日記の清少納言評と二人の関係
紫式部日記には、紫式部の清少納言に対する辛辣な評価が記されています。紫式部にとって清少納言の存在はどう見えていたのか?清少納言とはどのような存在であったのか?をわかりやすく解説します。

 

性格的には人見知りな部分があったようで、職場にて、現代でいうところのハラスメントを受けて逃げ出したことがあります。

 

その際のエピソードも含め、紫式部や源氏物語に関して、

・当初は紫式部と呼ばれていなかった!?
・かなりの晩婚!結婚した年齢は?
・卓越した教養の持ち主だった
・驚異的な数字だらけの源氏物語
・世界最古の記録を持っていた!
・夫のアレが執筆理由
・世界で愛されている源氏物語

といった情報を、コチラの記事でご紹介していますので、ぜひご覧になってみてください。

紫式部&源氏物語の豆知識・うんちく8選【トリビア&エピソード情報集】
日本の歴史上で最も有名な女性、そして最も有名な文学作品と言っても決して過言ではない紫式部と源氏物語。紫式部を身近に感じ、より源氏物語を楽しく読むための、紫式部&源氏物語に関する豆知識をご紹介します。

 

藤原為時

名前;ふじわらのためとき
生没年:天暦3年(949年)頃~長元2年(1029年)頃

紫式部と藤原惟規の父親です。

紫式部の「式部」とは、藤原為時が「式部丞」という職に就いていたことが由来となっています。

 

藤原道長からは「偏屈者」などと言われており、かなりお堅い性格だったようです。

 

また、愛娘の紫式部に対して、現代だったら炎上しそうな発言をしたことで知られています。

藤原為時が紫式部に言い放った一言とは??ぜひコチラの記事でご確認ください。

家系図付き!紫式部の父親 藤原為時はどんな人?娘に放った衝撃の一言とは?
紫式部の父『藤原為時(ふじわらのためとき)』。紫式部の性格にも影響を与えたというその人物像はどのようなものだったのでしょうか?為時が紫式部に放った心無い一言とは?この記事では藤原為時について解説します。

 

ちはや

名前:史実では不明
生没年:生年不明~天延元年?(974年?)

藤原為信という人物の娘で、紫式部と惟規の他に、もう一人女子(長女)を産んでいます。

 

ドラマでは「ちはや」という名前になっていますが、史実では名前はわかっていません。

没年も明確ではありませんが、紫式部が子供の頃に亡くなったと言われています。

 

藤原宣孝

名前:ふじわらののぶたか
生没年:生年不明~長保3年(1001年)

紫式部の夫です。

宣孝からの猛アタックにより結婚しますが、残念ながら結婚生活は約2年で終了してしまいます。

一説によると、宣孝との別れが源氏物語の執筆動機になったとも言われています。

 

清少納言の枕草子によると、周囲の目を気にしない豪快な人物だったで、周囲の目を驚かすような行動も見られたとか・・・。

そんな藤原宣孝の奇抜な行動や、紫式部の夫婦仲についてはの詳細は、コチラの記事をご覧ください。

紫式部の夫 藤原宣孝はどんな人?アツアツの結婚理由と悲劇の別れとは
藤原宣孝(ふじわらののぶたか)は、源氏物語の作者 紫式部の夫として知られています。そんな藤原宣孝とは一体どんな人物だったのでしょうか?また、紫式部とはどのように結ばれ、夫婦仲はどうだったのでしょうか?

 

藤原惟規

名前:ふじわらののぶのり
生没年:天禄3年?(972年?)~寛弘8年(1011年)

紫式部の弟(兄と言う説もある)。

残念な逸話がいくつか残っており、紫式部より物覚えが悪かったことで知られています。

 

ある日、宮廷に強盗が入ったのですが、その際、藤原惟規が対処して大きな手柄をあげる大チャンスが巡ってきたのですが・・・

この後の残念な結末は、ぜひコチラの記事でご確認ください。

藤原惟規を家系図付きで解説!紫式部の弟がやらかした大失態とは?
紫式部の弟 藤原惟規は紫式部日記にも登場するのですが、栄光が目の前にチャンスがあるのにイマイチそれを掴み切れない、ちょっと残念な人物で描かれています。そんな藤原惟規の残念なエピソードをご紹介します。

 

藤原道長

名前:ふじわらのみちなが
生没年:康保3年(966年)~万寿4年(1028年)

平安時代に絶大な権力を手にした人物。歴史の授業で必ず出てくる摂関政治でも有名です。

また「御堂関白記」という自筆の日記が現存しており、「ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)」に登録されています。

 

一説によると、紫式部と愛人関係だったとも言われていますが、その真相は・・・

禁断の愛?紫式部と藤原道長は本当に愛人関係だったのか?
平安時代に絶大な権力を誇った『藤原道長』と、源氏物語の作者である『紫式部』は、愛人関係にあったと言われています。この説は、はたして本当なのでしょうか?この記事では、紫式部は藤原道長の愛人説の真相を探ってきたいと思います。

 

そんな藤原道長は、権力者のイメージがとにかく強いのですが、実は権力者らしからぬ意外な一面を持った人物でもありました。

・まともに文章が書けなかった?
・実は〇〇になったことがなかった!
・現代人にも身近なあの病気を患っていた!
・超有名なあの女性と○○な関係だった?
・霊をも恐れぬ度胸の持ち主だった!

 

以上のような点を、藤原道長トリビア5選としてご紹介していますので、ぜひコチラの記事をご覧になってみてください。

藤原道長のトリビア5選【意外な人物像や性格、死因を超簡単にわかりやすく解説】
藤原道長とは、実際はどんな人物だったのでしょうか?この記事では、藤原道長の人物像を解説するとともに、藤原道長にまつわる意外な豆知識やトリビア5選をお伝えしていきます。

 

藤原彰子

名前:ふじわらのしょうし/ふじわらのあきこ
生没年:永延2年(988年)~承保元年(1074年)

藤原道長&倫子夫妻の娘で、第66代一条天皇の中宮。紫式部が仕えていたことでも有名です。

ドラマでは「彰子」を「あきこ」と読むようですが、一般的には「しょうし」と読まれることが多いです。

 

わずか12歳で入内し、一条天皇との間には後の天皇(後一条天皇と後朱雀天皇)となる2子を授かっています。

 

紫式部を始めとし、和泉式部や赤染衛門、伊勢大輔といったそうそうたる女房たちを率い、一時代を築き上げました。

 

そんな彰子の人物像はコチラの記事にサクッとまとめてありますので、ぜひご覧になってみてください。

藤原彰子の性格や人物像とは?紫式部との関係はどうだったの?
平安時代中期に多くの才女を従えていた藤原彰子。そんな彰子に仕えた多くの女性の中でも、特に紫式部の知名度が一番なわけですが、彰子と紫式部の関係とは、一体どのようなものだったのでしょうか?また、彰子とはどのような人物だったのでしょうか?

 

藤原兼家

名前:ふじわらのかねいえ
生没年:延長7年(929年)~永祚2年(990年)

藤原道長の父親。

光る君へに登場するかはわかりませんが、妻の一人に蜻蛉日記の作者として有名な「藤原道綱母」がいます。

兼家とその子供である道隆や道長の時代が、日本の歴史における絶頂期だったと言えるでしょう。

 

時姫

名前:ときひめ
生没年:生年不明~天元3年(980年)

藤原兼家の正室で、道隆、兼道、詮子、道長の母。

 

藤原道兼のところでも触れた藤原道綱母の蜻蛉日記にも、度々登場しています。

 

ともに藤原兼家に愛された女性であることから、やはりライバル心があったのでしょう。

蜻蛉日記の内容から察するに、名言こそされていないものの藤原道綱母からは、かなり嫉妬されていたようです。

 

藤原寧子(藤原道綱母)

名前:ふじわらのみちつなのはは
生没年:承平6年?(936年?)~長徳元年(995年)

ドラマでは「寧子」という名前で登場しますが、史実では本名不明で「藤原道綱母」や「右大将道綱母」と呼ばれています。

その名の通り、藤原道綱の母親でもあります。

 

蜻蛉日記の作者としても非常に有名。

蜻蛉日記は、この時代の登場する女流文学の先駆けとして多大なる影響を与えました。

蜻蛉日記の内容やあらすじを超解説!男女の溝は今も昔も変わらない
平安時代中期を代表する文学「蜻蛉日記」は、枕草子や和泉式部日記に先駆けて執筆された作品で、後の王朝文学に大きな影響を与えました。蜻蛉日記は現代人でも共感する嫉妬の記録・・・そんな蜻蛉日記の内容や基本情報をご紹介していきます。

 

藤原頼忠

名前:みなもとのよりただ
生没年:延長2年(924年)~永延3年(989年)

藤原兼家の従兄弟にしてライバルだった人物です。

藤原公任の父親でもあります。

 

関白の地位まで昇りつめたものの、兼家との政争に敗れて失脚してしまいました。

 

源雅信

名前:みなもとのまさのぶ/まさざね
生没年:延喜20年(920年)~正暦4年(993年)

源倫子の父親です。

源雅信は第59代天皇の宇多天皇の血を引いており、宇多天皇から見て雅信は孫にあたります。

 

藤原穆子

名前:ふじわらのぼくし
生没年:承平元年(931年)~長和5年(1016年)

源雅信の正室で、源倫子の母親です。

ドラマでは「穆子」を「むつこ」と読むようですが、一般的には「ぼくし」と読まれることが多いです。

 

倫子と藤原道長を結婚させた愛のキューピットだったことでも知られており、そのため道長は穆子に頭が上がらなかったと言われています。

 

源倫子

名前:みなもとのりんし
生没年:康保元年(964年)- 天喜元年(1053年)

藤原道長の正妻。

ドラマでは「倫子」を「ともこ」と読むようですが、一般的には「りんし」と読まれることが多いです。

 

藤原道長の政権を裏で支える一方で、子供たちには深い愛情を示す、まさに良妻賢母と言える女性でした。

 

そんな倫子の人物像や藤原道長との夫婦仲などは、コチラで詳しくお伝えしています。

源倫子とはどんな人?人物像や性格は?紫式部や藤原道長との関係を家系図付で解説
この記事では源倫子の人物像や魅力がわかる逸話をご紹介します。藤原道長との夫婦仲や、紫式部との興味深いエピソードなどもお伝えしますので、ぜひご覧になってみてください。

 

源明子

名前:みなもとのめいし
生没年:康保2年?(975年?)~永承4年(1049年)

藤原道長の妻の一人。

ドラマでは「明子」を「あきこ」と読むようですが、一般的には「めいし」と読まれることが多いです。

 

道長の正妻はあくまで倫子とされていたため、道長と明子の間に産まれた子供は、大きな出世ができませんでした。

 

源氏物語に登場する「源典侍」のモデルではないかとも言われています。

 

藤原道隆

名前:ふじわらのみちたか
生没年:天暦7年(953年)~ 長徳元年(995年)

藤原道長の兄。酒豪。

 

道長の前に凄まじい権力を手にしていた人物で、清少納言が書いた「枕草子」にも登場します。

枕草子の内容から察するに、凄まじい威光を放つ人物であったと同時に、度々冗談を言う砕けた一面を持った人物だったようです。

 

そんな藤原道隆の人物像や枕草子での登場シーン、歴史を大きく変えることになった死因などをコチラの記事にまとめてありますので、ぜひご覧になってみてください。

藤原道隆と道長の関係を家系図で解説。枕草子の登場シーンや死因、性格とは?
藤原道隆と藤原道長はどんな関係だったのか?藤原道隆が若くして亡くなった理由とは?そして、枕草子で藤原道隆はどう描かれているのか?などの情報を、系図を交えながらご紹介していきます。

 

高階貴子

名前:たかしなのきし/たかしなのたかこ
生没年:生年不明~長徳2年(996年)

藤原道隆の正妻。高内侍(こうのないし)や儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の名でも知られています。

 

後に、藤原道長と権力の座をかけて争うこととなる藤原伊周や清少納言が仕える定子の母にあたる人物です。

 

とても教養ある才女としても知られ、その和歌は百人一首にも選出されています。

そんな高階貴子についての記事はコチラからご覧ください。

高階貴子とはどんな人?家系図付で解説【百人一首や枕草子の登場シーンもご紹介】
高階貴子とは一体どのような人物だったのでしょうか?この記事では、あまり知られていない高階貴子について、家系図やエピソードを交えつつ、その人物像に迫ってみたいと思います。

 

藤原定子

名前:ふじわらのていし/ふじわらのさだこ
生没年:貞元2年(977年)~長保2年(1001年)

藤原道隆&貴子夫妻の娘で、第66代一条天皇の中宮(皇后)。枕草子の作者 清少納言が仕えていたことでも有名。

 

ドラマでは「定子」を「さだこ」と読むようですが、一般的には「ていし」と読まれることが多いです。

 

清少納言を始めとする女房集団を率い、雅で知的な後宮を築き上げたことでも知られ、その煌びやかさは枕草子が記す通りです。

 

しかし、とある事件が定子の身に降りかかり、彼女の運命を大きく変えていくことになるのです。

そんな藤原定子についての記事はコチラからご覧ください。

藤原定子の人物像とは?【年表&家系図付き!社会人向け歴史人物の超簡単解説】
藤原定子は、清少納言が仕え枕草子にも登場することでも知られています。そんな定子の生涯や性格とは?また彼女を襲った悲劇とは?今回は大人になってから歴史を学びたい方向けに、難しい専門用語は使わずわかりやすく解説していきます。

 

藤原伊周

名前:ふじわらのこれちか
生没年:天延2年(974年)~寛弘7年(1010年)

藤原道隆&貴子夫妻の息子で定子の兄にあたる人物。

 

枕草子によるとなかなかの男前で優雅な人物だったようですが、別の史料(大鏡など)によると、パッとしない2代目のお坊ちゃまでもあったようです。

 

長徳の変での失態により、自身のみならず一族全体を窮地に追いやってしまいました。

 

そんな藤原伊周の人物像や枕草子での登場シーンなどをコチラの記事にまとめてありますので、ぜひご覧になってみてください。

藤原伊周はどんな人?藤原道長との関係や枕草子の登場シーン、人物像を解説
藤原伊周は枕草子にも登場し、なかなかの貴公子っぷりで描かれていますが、大鏡という書物では一転して意外な人物像が浮き彫りになっています。伊周と道長の関係、伊周の人物像など枕草子や大鏡などの記述を元に系図を交えながらご紹介していきます。

 

藤原隆家

名前:ふじわらのたかいえ
生没年:天元2年(979年)~寛徳元年(1044年)

藤原道隆&貴子夫妻の息子で定子の弟にあたる人物。

 

枕草子では無邪気な若者として登場していますが、後年には「刀伊の入寇」と呼ばれる日本の危機を救う大活躍を見せています。

 

そんな藤原隆家の活躍ぶりは、コチラの記事にまとめてありますので、ぜひご覧になってみてください。

刀伊の入寇と藤原隆家!家系図で藤原道長や清少納言との関係も解説
...

 

藤原道兼

名前:ふじわらのみちかね
生没年:応和元年(961年)~長徳元年(995年)

藤原道長の兄。

大鏡によると、機長の小さな人物だったと伝わっています。

また、一説によると、顔色が悪くて毛深い人物だったそうです。

 

兄の藤原道隆が亡くなった後に、関白となって兄の威光を受け継ぎますが、わずが11日後に急逝しました。そのため「七日関白」という不名誉な名称で呼ばれることもあります。

 

藤原詮子

名前:ふじわらのせんし/ふじわらのあきこ
生没年:応和2年(962年)~長保3年(1002年)

藤原道長の姉で、一条天皇の母。

天皇の母だけあって、かなり強い発言権を持っていたようで、藤原道長が権力を手にした要因のひとつが、詮子の後押しがあったためだと考えられています。

 

清少納言

名前:せい しょうなごん
生没年:康保3年頃(966年頃)~ 万寿2年頃(1025年頃)

 

清少納言枕草子の作者として有名な人物。藤原道隆の娘 定子に仕えました。

 

紫式部のライバルとされる場合が多いですが、実は「清少納言が紫式部をライバル視していた」というイメージは誤りである可能性が高いです。

紫式部と清少納言のライバル関係の真実については、コチラの記事で詳しく解説していますので、ぜひご覧になってみてください。

清少納言と紫式部の本当の関係を図で解説!実はライバルじゃなかった?
...

 

その他にも、清少納言や枕草子に関しては、

・パーマで茶髪!?清少納言の意外な髪形とは?
・清少納言はこんな顔をしていた
・離婚の原因は性格の不一致とワカメ!?
・紫式部との本当の関係とは?
・「春はあけぼの」の次に書いてある内容とは?
・枕草子のレンタル制度があった!?
・本人の意図に反して枕草子が世に広まってしまった経緯とは?
・「枕草子」という題名に秘められた固い絆とは?

といった情報をコチラの記事でご紹介していますので、ぜひご覧になってみてください。

清少納言&枕草子の雑学・エピソードまとめ8選【知って楽しい豆知識・トリビアたち】
清少納言が書いた枕草子。「春はあけぼの」で始まることは知られていますが、それ以外の情報はあまり知られていない印象です。この記事では、清少納言のエピソード、枕草子をより楽しむための豆知識など、初心者さん向けに8つご紹介します。

 

赤染衛門

名前:あかぞめえもん
生没年:天暦10年?(956年?)~長久2年(1041年)

藤原道長の正室 倫子と、道長の娘 彰子に女房として仕えた女性。

 

栄花物語の一部の作者としても知られ、紫式部や清少納言、和泉式部などと並び称される才女です。

また、良妻賢母として知られ、紫式部日記には「匡衡衛門」というあだ名で呼ばれていたとや、格調高い和歌を詠む人物だったことが記されています。

赤染衛門 ~良妻賢母で大人の女性!紫式部日記に見る女流歌人の人物像
平安時代の才女と知られる赤染衛門。ですが、清少納言や紫式部、和泉式部といった同時代の有名人に比べると知名度で劣っている感は否めません。そんな赤染衛門人物像とは?そしてなぜ知名度が低いのか?など、赤染衛門の人物像に迫ってみたいと思います。

 

藤原実資

名前:ふじわらのさねすけ
生没年:天徳元年(957年)~永承元年(1046年)

藤原道長の権力に屈せず、公平な立場を示し続けた人物。

当時の状況を知るための貴重な史料「小右記」という日記の作者としても知られています。

 

藤原公任

名前:ふじわらのきんとう
生没年:康保3年(966年)~長久2年(1041年)

藤原道長の政権を支えた四納言の一人。藤原頼忠の息子。

 

藤原斉信

名前:ふじわらのただのぶ
生没年: 康保4年(967年)~長元8年(1035年)

藤原道長の政権を支えた四納言の一人。清少納言の枕草子にも登場していることでも有名です。

 

いがみ合っていた藤原斉信と清少納言との手紙のやりとりは、いわゆる「草の庵」というエピソードとして知られ、枕草子の中でも非常に有名なエピソードとなっています。

 

藤原行成

名前:ふじわらのゆきなり/ふじわらのこうぜい
生没年:天禄3年(972年)~万寿4年(1028年)

藤原道長の政権を支えた四納言の一人。能筆家としても有名。

当時の状況を知るための貴重な史料「権紀」という日記の作者としても知られています。

 

枕草子にも登場し、清少納言との親密な関係が描かれているため、恋仲だったのではないかと考えられます。

 

なお、枕草子の中に藤原行成が清少納言の容姿を表現しているのではないか?と言われる記述が存在します。

あくまで一説であり真偽はのほどは定かではないのですが、この記述を元に、清少納言の顔を復元したみた記事があるので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。

清少納言は美人なのか?顔、髪型を枕草子を元に3Dソフトで復元
枕草子の中に、清少納言自身の容姿や髪型、声に言及していると思われる部分があります。清少納言は一体どんな顔をしていたのか?枕草子の記述を元に、可能な限り彼女の顔を復元します。

 

源俊賢

名前:みなもとのとしかた
生没年:天徳4年(960年)~万寿4年(1027年)

藤原道長の政権を支えた四納言の一人。藤原道長の妻の一人 明子の兄。

 

安倍晴明

名前:あべのせいめい/あべのあるあきら
生没年:延喜21年(921年)~寛弘2年(1005年)

陰陽師として、とても有名な人物。

ドラマでは「晴明」を「あるあきら」と読むようですが、一般的には「せいめい」と読まれることが多いです。

 

藤原道長の日記「御堂関白記」にも登場しており、その内容から道長からも頼りにされていたことがわかっています。

 

「母親が狐だった」という説があったり、呪力を用いて悪霊と戦う姿がイメージされたりと、いかにも人間離れした印象のある人物ですが、実際はそんな超人ではありません。

 

なぜ、安倍晴明は人間離れしたイメージ強いのか?その理由は、現在では考えられない当時の歴史的背景が大きく影響しています。

そういった点も含め、安倍晴明の人間離れしたエピソードとともに、陰陽師にまつわる解説はコチラの記事からご覧くださいませ。

陰陽師 安倍晴明の人間離れした伝説やエピソード集
...

 

円融天皇

追号:えんゆうてんのう
生没年:天徳3年(959年)~正暦2年(991年)

第64代天皇。

藤原道長の姉にあたる詮子との間に、一条天皇を授かりました。

 

花山天皇

追号:かざんてんのう
安和元年(968年)~寛弘5年(1008年)

第65代天皇。

藤原道隆の一族(中関白家)が没落する大きな要因となった「長徳の変」で、被害を受けた天皇として知られています。

 

そんな長徳の変に関しては、相関図つきで詳しく解説していますのでぜひご覧になってみてください。

長徳の変とは?相関図&年表でわかりやすく解説【枕草子と翁丸に秘められた真実も紹介】
長徳の変(ちょうとくのへん)とは、平安時代中期の長徳2年(996年)に起こった事件です。この記事では、長徳の変に関わる重要人物の相関図や年表を掲載しつつ、事件の経過をわかりやすく解説していきます。

 

一条天皇

追号:いちじょうてんのう
天元3年(980年)~寛弘8年(1011年)

第66代天皇。

 

平安時代の女流文学が隆盛を極めた時代の天皇であり、枕草子などにも多く登場しています。

定子を彰子を正室して迎えました。

 

今後の登場人物予想

以下は、筆者が個人的に登場すると思っている人物の一覧です。

今後、追加キャストが発表され登場が確定次第、キャスト一覧と相関図に追加し、トリビアもお伝えしていきます。

 

登場はほぼ間違いない人物

大弐三位(藤原賢子)
紫式部の娘。

和泉式部
紫式部と同じく、彰子に仕えた女房。和歌が上手。

藤原妍子
藤原道長の娘。

藤原教通
藤原道長の息子。

藤原威子
藤原道長の娘。

藤原嬉子
藤原道長の娘。

 

おそらく登場すると思われる人物

小少将の君
紫式部と同じく、彰子に仕えた女房。紫式部の親友。

伊勢大輔
紫式部と同じく、彰子に仕えた女房。

 

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「光る君へ」まとめ

以上、光る君へのキャストと相関図でした。

今後も新たな情報が発表され次第、追記や修正を行っていきます。

 

なお、私がこのブログの記事を書く際に、参考にしているオススメ書籍をいくつかご紹介します。

さらに理解を深め、光る君へをより楽しみたい方は、ぜひ手にとってみてください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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