藤原惟規を家系図付きで解説!紫式部の弟がやらかした大失態とは?

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人物のエピソード

藤原惟規は紫式部の弟(兄説もあり)として知られる人物です。名前は「のぶのり」と読みます。

そんな藤原惟規は紫式部日記にも登場するのですが、栄光が目の前にチャンスがあるのにイマイチそれを掴み切れない、ちょっと残念な人物で描かれています。

 

藤原惟規はどんな「やらかし」をしてしまったのか?

 

この記事では家系図を交え藤原惟規の人物像をお伝えするとともに、藤原惟規の残念なエピソードをご紹介します。

 

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藤原惟規の家系図とプロフィール

まずは藤原惟規の家系図です。

生年は天延2年(974年)頃と考えられていますが、姉とされている紫式部の生年がはっきりわかっていない為、実際は藤原惟規が兄だった可能性もあります。

この記事では、一般的に言われている通り紫式部が天禄元年(970年)生まれだったと仮定し、姉が紫式部で弟が惟規として話を進めます。

 

なお、惟規の没年は寛弘8年(1011年)です。

 

父は藤原為時という人物で、漢学に精通した人物でした。

なお、惟規や紫式部が属する藤原氏は、いわゆる「藤原北家(ふじわらほっけ)」です。藤原北家とは簡単に言うと、数ある藤原氏の中でも最も栄えた藤原一族の総称で、有名な人物には藤原道長などがいます。

 

そんな藤原北家の中の「良門流(よしかどりゅう)」という藤原良門を祖とする一族の子孫が藤原惟規であり紫式部だったのです。

 

藤原惟規のやっちまったエピソード集

では、これから藤原惟規に関わる残念なエピソードをご紹介していきます。

 

覚えの悪さが露見する

まずは、藤原惟規に関するエピソードの中で最も有名だと思われるものをご紹介します。

父の藤原為時は息子の惟規に、日々漢文の講義を行っていました。

それを傍ら聴いていただけの紫式部でしたが、なんと惟規よりも覚えが早く、惟規が忘れてしまった内容もすらすらと答えることができたのです。

 

その様子を見ていた父 為時は紫式部にこう言いました。

 

藤原為時
藤原為時

残念だよ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだ・・・

 

父はこう言っていつも嘆いておられたのです。

この当時、漢文は男性が学ぶもので女性が嗜むものではないという考えが一般的でした。為時の発言にはこのような時代背景から発せられたものだと思われますが、なんとも無神経な発言とも感じますね・・・。

 

紫式部も不愉快だったでしょうが、惟規にしたって「姉と比べて劣っている息子」と間接的に言われたようなものです。

 

と言うか、幼少期の年齢差は例え1歳差であっても発達に結構な差を感じるので、紫式部が姉だとすると惟規の方が覚えが悪かったのは当然と言えば当然のようにも思いますね。

 

この逸話は惟規が子供の頃の出来事なので、姉弟そろって幼心に大きな傷を負ったことでしょう。

 

 

強盗事件で手柄を立てられず

続いては、宮中で起こった強盗事件での一幕です。

 

大晦日の夜、行事が思いのほか早く終わり、私(紫式部)はお歯黒を付けなど、ちょっとした身づくろいをしてリラックスしていました。

弁の内侍(べんのないし)という女房は横になって眠り、内匠(たくみ)という女房は少女に縫物を教えていらっしゃいました。

 

その時です!

彰子様(紫式部が仕えていた女性で天皇のお后様)のお部屋から凄まじい悲鳴が聞こえてきたのです!!

 

私は弁の内侍を起こそうとしましたが、なかなか起きてくれません。

人が泣きわめく声が聞こえてきて、なにが起こっているのかさっぱり分かりません。

 

紫式部
紫式部

彰子様の身に危険が及んでいるかもしれません、様子を見に行きましょう!!

 

 

私は無理やり内匠を先頭にして、弁の内侍を乱暴に叩き起こし、3人で震えながら悲鳴のした部屋へ向かいました。

 

すると2人の女房が身ぐるみはがされ、裸になってうずくまっていたのです。身の毛もよだつ事態です。

大晦日の行事が終わり、警備の者たちも皆帰宅してしまい、声を上げても誰も応えてくれません。

 

紫式部
紫式部

殿上の間に「兵部の丞」という男性がいるはずです!彼を呼んできてください!!

 

 

私ははしたなさも忘れ、出しゃばって指示を出していました。

しかし、兵部の丞も帰ってしまったとのこと・・・

 

 

紫式部
紫式部

兵部の丞め・・・肝心な時にいないなんて、この役立たず・・・

 

以上が、紫式部日記に書かれている大晦日の強盗事件です。この中で名前が出てくる「兵部の丞」という人物が実は藤原惟規

 

警備の者も帰ってしまい女性ばかりの中、ここで弟 惟規は頼られる存在であり、さらに強盗をとっ捕まえれば大きな誉れです。今後の出世にも良い影響を与えたかもしれません。

 

姉の紫式部にしてみれば、一族にとっての手柄のチャンスでもあったわけで、いるはずの惟規がこの日に限って帰ってしまった事実を非常に悔しがっています。

こういったチャンスを、藤原惟規が運悪く逃してしまったわけですね。

 

なお、今回は藤原惟規の記事なのでキリの良いところまでご紹介しましたが、このエピソードにはもう少し続きがあります。せっかくなので最後までご紹介します。

 

その後、資業(すけなり)という人物がやってきて、あちこちの灯を点けてまわりました。女房たちは呆然としておりましたが、幸いにも彰子様はご無事でした。

彰子様は裸になっていた2人に装束をお渡しになっています。

 

翌日・・・

身ぐるみ剥がされていた2人が、何事も無かったかのような澄まし顔で出仕していたけれど・・・。

紫式部
紫式部

昨晩の裸姿が目に焼き付いて・・・恐ろしかったけど・・笑えますw

・・・なんてことは口には出しませんけどね。

 

自ら役職を手放してしまう

そんなて藤原惟規でしたが、寛弘8年(1011年)に従五位下(じゅごいのげ)という位に就き、大きな出世を果たしました。わかりやすく言うと、上流貴族に出世したようなものです。

 

この当時、身分はとても重要視されていましたから、一家にとってもとても喜ばしいことでした。

 

ところが藤原惟規は、父の為時が越後(現在の新潟県北部)へ赴任するにあたり、父に同行して京都を離れることを選び、せっかくの地位を手放してしまったのです。

 

この時、父の藤原為時も高齢でしたから、「地位を辞してでも父の体を案じて同行していったのでは?」と考えると、惟規はとても親孝行で優しい人物だったのかもしれません。

 

そして、越後へ赴いたのと同じ年、藤原惟規は京都へ戻ることなく亡くなりました。

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藤原惟規まとめ

以上、藤原惟規の残念なエピソードをご紹介してきました。

 

筆者的には、どちらかというとマイペース心優しい人物だったのかなという印象です。

紫式部に比べ漢文の覚えが悪かったことや、地位を捨てて高齢の父に同行していったことなどから、そのように感じます。

強盗事件の際も、惟規に問題があるというよりは、ただ運が悪くその場にいなかっただけですからね。

 

パッとしない印象で語られることの多い藤原惟規ですが、見方を変えれば、おっとり優しい好印象な人物だったのかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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