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拓麻呂です。
長州藩を代表する2人の人物。
一人は『桂小五郎』(かつら こごろう)
一人は『高杉晋作』(たかすぎ しんさく)
同じ長州藩の出身ながら、あまり絡みが無いように思われる両雄。
ですが、意外なところで接点があったんです。
高杉晋作の桂小五郎に対する熱意が伝わるエピソード!
今回は、幕末のイケメンとも言われる、桂と高杉の意外な関係、そして維新三傑と呼ばれる桂小五郎(木戸孝允)の生涯に迫ってみたいと思います。
維新三傑!逃げの小五郎
出典:国立国会図書館ウェブサイト『近代日本人の肖像』より
吉田松陰との関係
高杉晋作が、吉田松陰の私塾『松下村塾』の門下生であったことは、よく知られています。
一方の桂は、松下村塾には入塾していません。
長州藩出身ということで、よく勘違いされますが、桂小五郎は松下村塾の門下生ではなかったんです。
ですが、松陰先生との絡みが無かった訳ではなく、しっかりと教えは受けています。
松陰先生は『山鹿流兵学』という兵法に精通していました。
桂は、長州藩の藩校『明倫館』で松陰先生から山鹿流兵学を学んでいます。
その縁もあり、松下村塾の門下生と同様に、桂も松陰先生を非常に慕っていました。
また、松陰先生も桂の才能を認めており、期待を寄せていました。
松陰先生への尊敬の念、そして松陰先生の期待。
そういった意味では高杉も同様です。
松下村塾の門下生であるか否かの違いはありましたが、両者ともに松陰先生とは良好な関係を築いていました。
本領発揮!逃げの小五郎!!
では、桂と高杉の関係はどうだったのでしょうか?
二人の関係を物語るエピソードが残されています。
ですが、そのエピソードに至る歴史の流れを確認しておきましょう。
桂が属する長州藩の尊攘派は『八月十八日の政変』で、京都を追われます。
京を追われた尊攘派の志士たちは、池田屋に集結し反撃作戦を練りますが、怪しい動きを察知した新選組に襲撃されます。
『池田屋事件』です。
多くの犠牲者を出した池田屋事件。
実は桂も池田屋にいるはずでした。
が、集合の時間を間違えて、池田屋にいなかった為、運よく難を逃れます。
『八月十八日の政変』と『池田屋事件』により、長州藩の権威は失墜。
立場を挽回しようと、長州藩の尊攘派の志士たちが、京都御所に攻め寄せます。
『禁門の変』です。(蛤御門の変とも)
しかし、敵対する会津藩に、西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢し、長州藩は総崩れ。
作戦は失敗に終わり、長州藩は朝敵となってしまいます。
朝敵になった長州藩の主犯格である桂小五郎。
当然、その身に危険が迫ってきます。
危険を察知した桂は、全力で逃げました。
桂の異名は『逃げの小五郎』
その異名が示すように、桂の本領発揮です。
最初は京都に潜伏していた桂でしたが、会津藩や新選組の捜索は厳しく、さらに遠くへ逃げ出します。
但馬国(たじまのくに、現在の兵庫県)の出石(いずし)まで逃亡し、身を隠した桂。
長い潜伏機期間の始まりです。
なお、高杉は禁門の変には参加していません。
禁門の変を無謀だと判断し、止めに向かったのですが、脱藩したと勘違いされて罪人となり、投獄されていました・・。
高杉晋作から桂小五郎へのラブコール
身を潜めてしまった桂。
完全なる引きこもり生活に突入です。
この間に長州藩では、解放された高杉による『功山寺挙兵』が起こります。
長州藩内で対立していた派閥(俗論派)を、高杉たち(正義派)が破り、藩の実権は高杉たち正義派が握ることとなりました。
藩の実権を握った高杉は、桂の捜索を開始します。
桂の居場所を知っていると噂のあった『大村益次郎』に宛てた手紙も残っています。
桂の居場所を突き止めた高杉は、自ら迎えに行こうともしていました。
結局行ったのは桂の愛人『幾松』でしたが・・。
高杉は、桂を長州藩の新たな統率者として迎え入れる為、熱烈なラブコールを送っていたんです。
そして、無事に桂は戻ってきました。
歓喜の中、迎えられた桂。
つい、無邪気に喜ぶ高杉の姿を想像してしまいます。
なお、この時の歓喜の様子を、後の初代内閣総理大臣 伊藤博文はこう回顧しています。
『大日照りの中に、雨の前触れである雲を望むごときであった』
薩長同盟~明治新政府樹立~西南戦争
この後、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が実現。
長州藩の代表として、桂は西郷隆盛との会談に臨みました。
それから約1年後、結核を患った高杉が世を去ります。
この頃に名を数回改め、維新三傑の一人『木戸孝允』(きど たかよし、きど こういん)となります。
やがて明治維新への歩みは加速していき、大政奉還、王政復古の大号令、そして明治新政府が誕生しました。
戊辰戦争の後、木戸は明治新政府の要職に就き、政治の中枢に関わっていくこととなり、海外へ視察に出かけます。
『岩倉使節団』です。
出典:Wikipediaより ※一番左が木戸
欧米の先進的な技術を見聞してきた木戸が帰国すると、新政府は混乱状態に陥っていました。
征韓論や台湾出兵で、内輪もめ状態の新政府。
結果的に、征韓論を唱える西郷さんは政争に敗れ、薩摩に下野。
そして、新政府の方針に反発する士族に担がれた西郷さんが挙兵。
ここに『西南戦争』が勃発します。
かつては敵対していた薩摩藩の西郷さん。
しかし、薩長同盟を経て、今や新しい日本を創造した仲間。
木戸は西郷さんの説得に乗り出します。
しかし・・・
持病の脳発作が悪化した木戸は、西郷さんの説得に向かうことが出来ませんでした。
それから間もなく、大久保利通の手を握りしめ、木戸は最後の言葉を発しました。
『西郷・・・いい加減にせんか・・・』
高杉晋作亡き後、長州藩の代表として、その責務を一心に背負ってきた逃げの小五郎。
最後は逃げることなく、真正面から西郷さんを諫めようとしました。
しかし、その意思は叶いませんでした。
享年45
松陰先生に認められ、高杉晋作にも信頼された維新三傑 木戸孝允は、西郷さんのことを憂いながら息を引き取りました。
もし高杉晋作が長生きしていたら・・・
時々思うことがあります。
木戸を長州へ連れ戻し、温かく迎えた高杉晋作が明治という時代を見ていたら、木戸と一緒にどんな日本を創造していただろう・・?
西郷隆盛と大久保利通のように、木戸孝允と高杉晋作の長州藩を引っ張ってきた両雄が活躍する明治新政府。
そんな妄想をするもの、歴史の楽しみ方の一つなのかなと感じます。
そんな高杉晋作の生涯はコチラをご覧ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました!