隠れた名君 毛利敬親!そうせい侯こそ現代にも通ずる有能な藩主!

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人物のエピソード

ご来訪ありがとうございます。

拓麻呂です。

 

幕末に活躍した雄藩には、やはり有能な藩主がいました。

 

薩摩であれば『島津斉彬(しまづ なりあきら)』

会津であれば『松平容保(まつだいら かたもり)』

福井であれば『松平春嶽(まつだいら しゅんがく)』

土佐であれば『山内容堂 (やまうち ようどう)』

肥前であれば『鍋島閑叟(なべしま かんそう)』

 

では、長州は・・・?

 

『毛利敬親(もうり たかちか)』です。

 

他の名君たちに比べ、いまひとつ知名度が低くパッとしない印象がある『毛利敬親』

 

ですが、毛利敬親の振る舞いにこそ、真の藩主の姿が見え隠れしています。

 

今回は、そんな毛利敬親の、真の藩主たる姿に迫っていきたいと思います。

 

 

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そうせい侯 毛利敬親

出典:Wikipediaより

敬親の口癖『そうせい』

まず、毛利敬親を語る上で避けては通れない、彼の有名な口癖があります。

 

『そうせい』

 

家臣から何か進言された時、敬親はいつもこの言葉を口にしていたと言います。

つまり、『あなたの思う通りにやってみなさい』という事です。

 

この口癖から、敬親は『そうせい侯』という妙なあだ名で呼ばれています。

 

 

しかし、この『そうせい』こそ、真の藩主のあるべき姿だったんです。

 

 

上に立つ者のあるべき姿

一見すると、すべて家臣に丸投げしているように思える敬親の『そうせい』。

 

そんな敬親の長州藩からは、幕末を代表する多くの人材が現れます。

桂小五郎、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞などなど・・・。

 

こういった人材を輩出した一つの要因が『そうせい』なんです。

 

敬親は、立場に関わらず人材の登用を積極的に行ったと伝わっています。

 

そんな若者たちの進言に対し、敬親は『そうせい』と彼らの意思に任せていました。

 

つまり敬親の『そうせい』は、家臣たちが自由に考え、そして自らの意思で行動することを促しているんです。

 

こういったある意味自由な空気が、長州藩士たちの原動力になっていると僕は考えています。

 

 

現代社会に置き換えてみましょう。

有能な上司ほど、部下に手を貸しません。

また、無能な上司の下で働く部下ほど成長します。

 

上司が何もしてくれないから、自分で考え行動するしかないからです。

 

部下の仕事に手を出す上司は、一見すると優しく頼りがいのある人物に見えてしまいます。

ですがそれは、部下が自分で考え行動する機会を奪っているに過ぎません。

 

長州藩とは、敬親が『そうせい侯』だったからこそ、高杉や久坂のような、行動力のある人材が生まれました。

吉田松陰のような、高い志を掲げる男が現れました。

 

もし、敬親が下手に口出ししていたら、彼らの行動を躊躇させていたかもしれません。

歴史を動かした行動が起こせなかったかもしれません。

 

敬親の『そうせい』が作り上げた長州藩の風土こそ、長州藩から多くの人材が出た要因の一つだといえるのではないでしょうか。

 

 

名君 敬親の姿

しかしながら、これだけでは自分の意思のない無責任な殿様で終わってしまいます。

ですが、敬親には『そうせい』だけではない、藩主としての姿もあります。

そんな敬親の姿を一つずつ見ていきましょう。

 

責任は背負い、道を示す

幕府軍が長州に迫ってきた第一次長州征伐。

このような事態になったのは、自分の意思で行動していた藩士たちの行動が原因です。

 

幕府軍の対抗するため、長州では会議が開かれました。

が、意見を出し合う長州藩士でしたが、結論は出ず日が暮れてしまいました。

 

完全に煮詰まった会議の場。

すると、これまで黙り込んでいた藩主 敬親が口を開きます。

 

「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」

 

そう言うと敬親は席を立ち、会議の場を後にしました。

 

自らの部下に当たる藩士たちが起こした長州征伐。

緊急事態を打開するため開かれた会議でしたが結論は出ずじまい。

 

そんな事態に対し、最後は藩主である敬親が意見を述べました。

 

基本的には『そうせい』と藩士の自由意志に任せている敬親も、最後はきっちりと進むべき道を示しました。

 

立場や年齢を気にしない藩主 敬親の姿

また、敬親は吉田松陰の門下になり、教えを受けたことがあります。

 

吉田松陰は下級武士の家柄、一方の敬親は長州藩の殿様です。

まして松陰先生は、敬親より11歳も年下です。

普通だったら殿様としてのプライドが邪魔して、下級武士に教えを乞うことなど出来ないはずです。

 

でも、敬親は違いました。

 

立場や年齢に関わらず、有能な人物から学べることを学び吸収しようとする姿勢。

 

これこそ、藩主として・・と言うより人として、模範にすべき姿なのではないでしょうか。

 

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長州藩士の陰に、そうせい侯あり

明治維新を主導した長州藩の殿様であるにも関わらず、あまり知られていない毛利敬親。

 

ですが、知られていないからこそ敬親は名君であったと僕は考えています。

 

あくまで長州藩士たちの裏方に回り、彼ら自身に行動させる。

その結果、成功すればそれは藩士たちの手柄。

一方、失敗すれば責任は藩主たる自分が背負い、進むべき道を示す!

 

そうせい侯 毛利敬親の振る舞いは、現代社会にも通ずる上に立つ者の心得を示しているのではないでしょうか?

 

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では、今回はこの辺で!

ありがとうございました。