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拓麻呂です。
江戸時代にある一つの学問が栄えました。その学問を『国学』と呼びます。国学とは日本の歴史や文化を追い求める学問の事、江戸時代は沢山の国学者を輩出した時代でもあります。
本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤・・・
江戸時代中期、そんな国学者の中でも、ひと際異彩を放つ一人の男性が現れます。
『塙保己一(はなわほきいち)』
一応、歴史の教科書にも登場しますが、現在の知名度はさほど高くありません。僕はこれが不思議でなりません。保己一先生の成し得た偉業は本当に凄まじく、もっと評価されるべきであると僕は考えています。
今回は、そんな塙保己一に注目してみますが、彼を語る上で最初にお伝えせねばならないことがあります。
保己一は、わずか七歳で視力を失っています。
光の無い世界・・・大きなハンデを背負った保己一先生は『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』と言う書物の編纂に生涯を捧げました。
『世のため後のため』・・・それでは早速、保己一先生の偉業を見ていく事にしましょう。
~江戸時代の国学者『塙保己一』~
群書類従とは何なのか?
まず、保己一先生が生涯を捧げた『群書類従』について簡単にご説明いたします。
群書類従とは、日本全国に散らばった歴史文献をかき集め、まとめたものです。そこには、失われてしまう可能性がある日本の歴史を、後世に伝えるという保己一先生の意図がありました。
そして驚くべきことに、その数はなんと666冊。保己一先生は34歳で編纂を志し、41年の歳月を経て、666冊にも及ぶ群書類従を完成させます。
この群書類従は、現在の日本史研究にも活用される、非常に貴重な史料となっています。
群書類従はどのようにして編纂されたのか?
冒頭でもお伝えした通り、保己一先生は幼い頃に視力を失っています。光の無い世界でどのようにして、666冊にも及ぶ群書類従を編纂できたのでしょうか?
保己一先生は、収集した歴史文献を仲間に読んでもらい、その卓越した記憶力で内容を暗記していきました。
盲目であるからこそ、その聴覚は研ぎ澄まされ、一言一句聞き逃すまいとする集中力で頭の中にインプットしていったのです。
正に人間コンピューターと言っても過言ではない凄まじい記憶力・・・
この人間離れした頭脳に刻まれた情報は、版木という板にアウトプットされていきます。
その内容は文字として版木に彫りこまれ、インクを付けて紙に押印します。現在で言うところの版画と同じ手法です。この他にも、文献の整理、文字の誤りを見つける校正作業も行われました。
この手順を繰り返し、41年の歳月を経て666冊にも及ぶ群書類従は編纂されていったのです。
~世のため後のため・・塙保己一の思い~
視力を失いながらも、その卓越した記憶力を駆使し群書類従の編纂に生涯を捧げた塙保己一。この凄まじい偉業には、保己一先生が心に秘めた強い思いがありました。
その思いとは『世のため、後(のち)のため』・・・
後世に生きる我々に日本の歴史を正しく伝承していくため、保己一先生はその生涯を捧げ群書類従を完成させたのです。
視力を失いながらも666冊に及ぶ群書類従を完成させた生前の偉業、そして失われかけた歴史を現代に伝え、後世にも影響を与え続ける国学者 塙保己一。
『世のため後のため』
この精神が物語る通り、塙保己一は生前から現在に至るまで日本人に大きな影響を与え続ける大先生なのです。
~ヘレン・ケラーが目標とした塙保己一~
視力と聴力を失ったアメリカ人女性『ヘレン・ケラー』。彼女は保己一先生を人生の目標にしていたと伝えられています。
昭和十二年、ヘレン・ケラーは来日の際、温故学会と言う保己一先生の偉業を称える学会を訪れ、保己一先生の小さな像に触れました。
像に触れたヘレン・ケラーは大変感銘を受け、日本訪問における最も価値のある出来事だったと語っています。
このヘレン・ケラーが触れた像は、現在も塙保己一記念館(埼玉県本庄市)に展示されており、実際に触ることが出来ます。
僕も実際、記念館を訪れ像に触れてみたことがあります。その瞬間、保己一先生の群書類従に捧げた熱い想いと、ヘレン・ケラーが保己一先生に抱いた尊敬の念が、僕の全身を伝わり鳥肌が立ちました。
保己一記念館を訪れた際には、是非その像に触れてみてください。視力を失った二人の偉人が優しく語り掛けてきてくれることでしょう。

余談 ~和菓子になった塙保己一~
保己一先生の生まれた埼玉県本庄市児玉町に、とある和菓子店があります。
ここには『塙保己一最中』と言う和菓子が売っています。
あんこがたっぷり入った非常に美味しい最中です。保己一先生は現代人の味覚をも楽しませてくれるのです。
保己一記念館を訪れた際は是非立ち寄ってみてください。
では、今回はこの辺で!ありがとうございました。