源氏物語や枕草子の現代語訳や、平安時代頃の書籍を読んでいると「中宮」という言葉をよく目にします。
この「中宮(ちゅうぐう)」という言葉は、一体どのような意味なのでしょうか?
また、「女御(にょうご)」や「更衣(こうい)」などもよく見る言葉ですが、これらの意味や「中宮」との違いは何なのでしょうか。
この記事では、平安時代中期頃の「中宮」「女御」「更衣」そして「皇后」などのお后様の序列についてわかりやすく解説します。
今回お伝えする内容を把握しておくと、平安中期の王朝文学を読む時の楽しさや理解の向上につながりますので、ぜひ最後までお読みいただけると嬉しいです。
本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。音声では女房のランクについてもお話ししています。
中宮、女御、更衣、そして皇后の意味
「皇后」「中宮」「女御」「更衣」
ざっくり行ってしまうと、これらの言葉は全て「天皇のお后様」または「お妃様」を指す言葉です。
ただ、これらにはしっかりとした序列があって、一番上が「皇后」と「中宮」、次が「女御」、その次が「更衣」となります。
①中宮、皇后
②女御
③更衣
中宮(皇后)とは?
中宮と皇后は、天皇の正式なお后様で、基本的には中宮と皇后の間に序列の差はありません。
感覚的には、「皇后」の別称が「中宮」という感じです。
また、中宮も皇后も、天皇お一人に対して一人しかいません(例外もあり)。
ではなぜ「中宮」と「皇后」という同じ意味の言葉があるのかというと、元々は、皇后(皇太后と太皇太后も含む)のお住まいが中宮と呼ばれており、いつのまにか皇后ご自身が中宮と呼ばれるようになったと言われています。
と、中宮と皇后を簡単に言ってしまうと以上のようになるのですが、歴史を見てみると少々複雑な事情が絡んでいたりもします。
その辺の事情を次にお伝えしますが、ちょっと小難しい話なので、純粋に中宮や女御の意味だけを知りたい方は、次項の「女御とは?」までスクロールしてしまってください。
中宮定子と皇后定子
枕草子の作者である清少納言がお仕えした「藤原定子(ていし/さだこ)」という女性がいます。
藤原定子です。
定子が一条天皇の正式なお后様になった後は「中宮定子」と呼ばれたりしますが、後に「皇后定子」に呼び名が変わります。
なぜかと言いますと、定子が第66代一条天皇の女御(中宮の次の奥さんのこと ※詳しくは「女御とは?」で後述)だったころ、すでに藤原遵子という女性が第64代円融天皇の中宮(皇后)になっており、中宮(皇后)の位がすでに埋まっていました。(中宮(皇后)の位には一人しか就けない)
そこで定子の父親である藤原道隆が、「皇后=中宮」という「呼称は違うけど意味は同じ」という理屈を利用して、定子を中宮として一条天皇の正式なお后様にしました。
こうして中宮(一条天皇の正妻)となった「中宮定子」が誕生します。
そして遵子が皇后(円融天皇の正妻)となります。
こうして藤原道隆は、娘の定子を一条天皇の中宮(皇后と同等)とし、道隆一族は大いに栄えるわけです。
ですが程なくして、藤原道隆が急逝してしまい、弟の藤原道長が頭角を現してきます。
すると今度は藤原道長が権力を手に入れるため、自分の娘の彰子を一条天皇の正式なお后様にしようとします。
そこで藤原道長がとった作戦が、「定子を皇后」にして、「彰子を中宮」に据えるというものでした。
皮肉なことに、生前の藤原道隆が、皇后と中宮を分離させたのを、逆に利用された形になってしまったのです。
こうして定子は「皇后定子」となり、一条天皇には定子と彰子という正式なお后様が2人いるという異例の事態となったのでした。
女御とは?
では次に「女御」についてお伝えします。
女御は、中宮(もしくは皇后)に継ぐ位で、天皇の2番目のお后様です。
父親の地位が大臣以上だと女御になれます。
中宮や皇后が、一部の例外を除き基本的には一人しかいなかったのに対し、女御は一人の天皇に対し決まった人数はなく、複数人いることが可能で、それぞれが御所内の殿舎(建物)に住んでいました。
一例として、定子の妹に「原子」という人物がいますが、原子は後の三条天皇の女御だったことで知られています。
そんな原子は、淑景舎(しげいしゃ)という殿舎に棲んでいたので、淑景舎女御(しげいしゃのにょうご)とも呼ばれています。
また、源氏物語の序盤から登場している「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」という意地悪そうな人物がいますが、彼女の弘徽殿も御所内の住まいからきています。
更衣とは?
では、最後に「更衣」についてです。
更衣は女御に次ぐ3番目の位になります。
この更衣についても、源氏物語の登場人物が分かりやすいかと思います。
源氏物語の一番初めに「桐壺の更衣」という光源氏の母親が登場しますが、その名の通り彼女は更衣の地位でした。
ちなみに、桐壺とは女御のところでお伝えした淑景舎の別名なので、桐壺の更衣も淑景舎に住んでいたということですね。
この桐壺の更衣ですが、帝にとても愛されていました。
しかし、帝の愛が強すぎたが故に周囲の女性から憎まれて、ひどいいじめを受けてしまいます。
・・・・
なぜかというと、「更衣という低い地位(3番目の地位)であるにもかかわらず、帝に最も愛されていた」という状態だったこら、ひどいイジメに合っていたわけです。
こういった身分の問題があった中で、桐壺の更衣より上の身分だった弘徽殿の女御は、
自分の息子ではなく、桐壺の更衣の息子(光源氏)が皇太子になったらどうしよう・・・
という不安があって、厭味ったらしい態度を取ったりしていたわけです。
その背景には、「更衣という低い地位であるにもかかわらず、帝に最も愛されていた」という状態があって、その結果周囲からひどい嫌がらせを受けていたと言うことなんですね。
この源氏物語の描写は、こちらの記事で詳しく解説していますのでぜひご覧になってみてください。
お后様のランクまとめ
以上、中宮(皇后)、女御、更衣の解説の序列についてでした。
まとめると、お后様の序列は
②女御(にょうご)
②更衣(こうい)
となっていたということです。
源氏物語などの王朝文学やこの時代を扱った歴史の本などを読む時には、お后様の序列「中宮(皇后)」、「女御」、「更衣」がどういった意味で、どういった序列なのかが分からないと、理解しづらい部分があったります。
なので、今後もこう言った豆知識を知っているだけでも、王朝文学を読む楽しみがグッと増すこと間違いなしですよ!
その他、平安時代の豆知識など、多数執筆していますので、ぜひご覧になってみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考にした主な書籍】