藤原彰子(ふじわらのしょうし)。紫式部、和泉式部、赤染衛門など、多くの有名女房を従え、女性たちの文芸サロンを築き上げた人物です。また、第66代一条天皇のお后様でもありました。
そんな彰子に仕えた多くの女性の中でも、特に紫式部の知名度が一番なわけですが、彰子と紫式部の関係とは、一体どのようなものだったのでしょうか?また、彰子とはどのような人物だったのでしょうか?
この記事では、彰子と紫式部の意外な関係についてご紹介していきます。
紫式部日記に書かれた彰子の印象
紫式部は彰子の女房として仕えていたため、簡単に言ってしまえば2人は主従関係です。紫式部は自身の日記(紫式部日記)の中で、主君の彰子について以下のように言及しています。
- だらしない恋愛を軽薄と考えている。
- 奥ゆかしくて、とても上品。
つまりは『下ネタや男女のだらしない関係が嫌い』という感じで、彰子は、非常に清廉潔白な女性だったようです。
だらしない男女関係に対する想いは、紫式部も同じような考えをもっていたと思われ、例えば色恋沙汰が多かった『和泉式部』という女性に対して、紫式部は「感心できない」というコメントを残しています。
紫式部はあまり派手な性格ではなかったようなので、お上品でおしとやかな彰子とは相性は良かったのではないでしょうか。
紫式部は彰子からの依頼で家庭教師的な枠割もこなしているため、彰子からの信頼はかなり厚かったと思われます。彰子と紫式部は、かなり良い関係が築けていたのではないでしょうか。
彰子から見た紫式部
一方、彰子から見た紫式部はどのような感じだったのでしょうか?ちょっと意外なのですが、彰子は紫式部と出会ったばかりのころは、あまり仲良くなれなそうだと感じていたようです。
紫式部はちょっと影のある性格なうえ、源氏物語と言う名作を書いているインテリな女性、年下の彰子から見て、ちょっと近寄りがたくて怖い存在だったのかもしれません。
ですが、紫式部が彰子に仕えた元々の理由に、彰子に漢詩を教える家庭教師という役割もあり、漢詩の講義を通じて二人はかなり親密になったようです。
紫式部日記には、彰子が紫式部にかけた言葉が書かれているのですが、その言葉が全てを物語っています。
あなた(紫式部)とは心を割ってお付き合いできるとは思っていませんでした。でも、不思議なことに、今では一番の仲良しになってしまいましたね!
紫式部に対して、最初はあまり良い印象を持っていなかったようですが、家庭教師を通じて徐々に信頼関係を築いていったことが、この言葉から伝わってきますね。
彰子の人物像
藤原彰子という女性は、基本的には上品で真面目て優しい性格だったのかなと思います。それは、紫式部日記が伝える通りです。
ただ、彰子は12歳で宮廷デビュー(一条天皇に嫁いだ)しており、紫式部が仕えていた期間も彰子がかなり若い頃、紫式部日記に記された彰子も当然若かりし頃の人物像です。
後の彰子は、紫式部を始めとした当時の有名な女房を統率し、さらに二人の天皇の母親にもなっています。また、次期天皇の皇位を巡って、父である藤原道長の非情な政治姿勢に反発したりもしていました。
大人になった彰子は、若かりし頃の優しさや上品さはそのままに、真っすぐな強い意志も備わっていったと考えられますね。
藤原彰子の人物像まとめ
以上、彰子の人物像や紫式部との関係でした。
最初は紫式部に良い印象を持っていなかった彰子。しかし、成長するにつれて強い意志を持った強い女性になり、紫式部とも良好な関係を築いていきました。そんな彰子の出発点には、紫式部の存在が大きく影響していたのです。
紫式部の目には『清廉潔白でお上品なお姫様』として映っていた藤原彰子。彰子は紫式部を信頼し、紫式部は彰子を盛り立てるべく誠心誠意お仕えしました。そんな二人の間には、主従の関係を超えた固い絆があったと思えてなりません。
平安時代の女性たちによる王朝文学、そして個性豊かな女性たち、そんな平安時代の文学作品や女性たちに関してたくさん執筆していますので、↓コチラ↓からぜひご覧になってみてください。
【参考にした主な書籍】