清少納言と紫式部。枕草子と源氏物語という文学作品を後世に残した日本が誇る2人の女性です。
2人は、よくライバル関係だったと言われていますが、本当は一体どのような関係だったのでしょうか?
この記事では、清少納言と紫式部の本当の関係や仲を、関係図を交えながらわかりやすく解説していきます。
本記事は音声でも解説しています。本文を読むのが面倒な方や、他のことをしながら聴き流したい方はぜひご活用ください。
清少納言と紫式部の本当の関係
清少納言と紫式部の関係を図にしたので、まずはこちらをご覧ください。
・2人は面識がない
・仕えていた主君が違う
・ライバル視していたのは紫式部だけ
上記のポイントを軸に、清少納言と紫式部の関係を見て行きましょう。
面識が無かった清少納言と紫式部
よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、実は『面識がなかった』と言われています。清少納言と紫式部はともに宮廷で働いていたのは同じなのですが、宮仕えしていた期間が微妙にずれているのです。
2人の宮仕えの期間には諸説あるものの、
・紫式部→→西暦1005年頃~1012年以降
と言われています。
注目したいのは『清少納言が宮仕えを辞めた年』と『紫式部が宮仕えを始めた年』です。清少納言は『西暦1001年頃』に宮廷を去っていて、一方の紫式部は『西暦1005年頃』に宮仕えを始めています。
つまり、清少納言が宮廷を去った約4年後に紫式部は宮仕えを始めており、清少納言と紫式部が同時に宮廷にいた期間は一切ないのです。
もしかしたら平安京内ですれ違ったりはしていたかもしれませんが、直接的な関わりは確認できないため『清少納言と紫式部は面識がなかった』とされているのです。
仕えていた主君が違う
清少納言と紫式部は共に宮廷で働いていました。しかし、宮仕えしていた期間が違うのはすでに述べた通りで、さらに仕えていた主君も異なっています。
定子と彰子は『いとこ』の関係で、ともに一条天皇に嫁いでいますが、清少納言と紫式部としては主君が違うので、ここでも直接的な接点はありません。
ですが、定子の兄(藤原伊周)と彰子の父(藤原道長)が権力争いをしていた背景があり、間接的にはライバルだったと言えなくもないです。
ライバル視していたのは紫式部のみ
『宮仕えしていた時期』と『仕えていた主君』が違うため、清少納言と紫式部には直接的な接点はありません。なので、バチバチのライバル関係だったわけではないのです。
ただし、1つだけ注意したい点があります。それは『紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた可能性はある』ということです。なぜかと言うと、『定子&清少納言たち』と『彰子&紫式部たち』が作り出す雰囲気に大きな違いがあり、紫式部が『定子&清少納言たち』に大きな嫉妬を感じていたからです。
定子に仕えていた女性たちの空間は、知的で楽しい時間が過ごせる空間だったため、男性貴族たちからもたいへん評判でした。しかし、定子が亡くなり、清少納言は宮廷を去り、その後に紫式部は宮仕えを始め彰子に仕えています。
つまり『彰子&紫式部たち』は『定子&清少納言たち』の後任のような立場だったため、常に『定子&清少納言』と比較される立場にあり、男性貴族たちは楽しかった『定子&清少納言たち』との思い出をいつも懐かしんでいたのです。
これでは紫式部も面白くありません。
結果的に、清少納言は紫式部が超えなければならない壁のような存在になっていたのです。
以上が、紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた原因なのです。
清少納言を酷評した紫式部
以上のような状況から、清少納言を一方的にライバル視していた紫式部。他にも、清少納言をライバル視する要因がありました。
それは『枕草子』の存在です。
枕草子には清少納言が男性貴族たちと、知的に明るく振る舞う様子が描かれています。一方、紫式部は人付き合いが苦手な性格だったようで、知的な部分を堂々とさらけ出す清少納言があまり好きではなかったものと思われます。
枕草子は当時から宮廷内でも読まれていたらしく、紫式部も目にしていたのかもしれません。
枕草子から伝わる清少納言像に、紫式部としては嫌悪感を覚えたのでしょう。自身の日記(紫式部日記)で、清少納言に対して凄まじい酷評をしています。
紫式部の清少納言評はコチラで詳しく解説しています。
→紫式部と清少納言は仲が悪い?紫式部日記の清少納言評と二人の関係
清少納言を酷評した理由には、紫式部日記が書かれた意図や、当時の政治的背景も加味する必要があるかと思います。しかし、紫式部の個人的な感情が入っていなければ書けないような内容になっていますので、ぜひご覧になってみてください。
娘たちはともに彰子の女房だった
最後に少し補足情報をお届けします。
清少納言と紫式部の主君が別の女性だったのはすでに述べた通りです。
しかし、清少納言と紫式部の娘たち
- 清少納言の娘『小馬命婦(こまのみょうぶ)』
- 紫式部の娘『大弐三位(だいにのさんみ)』
は、ともに彰子に仕えていたとされています。
つまり、現代でいうところの職場の同僚だったのです。
母親同士は面識がなく、紫式部が一方的にライバル視していましたが、娘同士はどのような関係だったのでしょう。残念ながら小馬命婦と大弐三位の関係を示す材料は残っていません。
ですが、清少納言と紫式部という王朝文学の双璧の娘たちが、同じ職場で同じ上司の下で働いていたと思うと非常に興味深いですね。
清少納言と紫式部の関係まとめ
以上、清少納言と紫式部の関係についてでした。
清少納言と紫式部は、
・仕えていた主君が違った
ため、面識はなく個人的なライバル関係でもありませんでした。
ですが、
・枕草子から伝わってくる清少納言の性格が根本的に嫌いだったのかも
・紫式部日記に清少納言を酷評している箇所がある
ために、紫式部が一方的にライバル視していた可能性がある。
ということになるのでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
他にも紫式部と清少納言関係の記事を多数執筆していますので、ぜひご覧になってみてください。
【参考にした主な書籍】
【初心者向けオススメ書籍】