清少納言と紫式部の違いと共通点を図表でわかりやすく解説します

清少納言と紫式部

清少納言紫式部。ともに平安時代中期の女性で、ライバル扱いされる場合も多い2人。生い立ちや活躍した期間、やっていた仕事、文学作品を残した実績など、似ている部分が結構あります。

 

なので、『清少納言と紫式部の共通点や違いがよくわからない』という場合もかなりあると思います。

 

そこで今回は、清少納言紫式部の共通点と相違点を、一目でわかる一覧にしてみました。

一覧の後には、それぞれ簡単な解説も行っていますので、ぜひご覧になってみてください。

 

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清少納言と紫式部の共通点

まずは共通点からご紹介します。

①素晴らしい文学作品を残した

清少納言/出典:Wikipedia

清少納言紫式部は、ともに現在まで読み継がれている文学作品の作者です。清少納言は『枕草子』を書き、紫式部は『源氏物語』を書きました。

 

清少納言や紫式部が生きた時代は西暦1000年前後(10世紀~11世紀に変わる時期)。この時代は女性によって文学作品が多数書かれました。枕草子や源氏物語の他にも蜻蛉日記(かげろうにっき)』和泉式部日記(いずみしきぶにっき)』更級日記(さらしなにっき)』などがその代表格です。

以上のような、宮廷女性によって仮名文字で書かれた文学を『王朝文学』と言います。

 

世界的に女流文学の隆盛が認められるのは19世紀以降と言われています。10世紀~11世紀の段階で女流文学が世に出た歴史は日本の誇りと言っていいでしょう。また、この歴史から日本は男女の格差など本来は無く、男女がそれぞれ活躍していた国だったこともわかります。

 

②宮仕えを経験している

清少納言と紫式部はともに宮廷で働いていました。宮廷で働くことを『宮仕え』と言います。

 

具体的に何をしてしていたかというと、天皇のお后様に仕えていて、身の回りの世話、話し相手、教育係、客人の取次などを行っていました。このような高貴な人物に仕える女性を『女房(にょうぼう)』といいます。

つまり、清少納言と紫式部も『女房』として、宮廷で働いていたわけですね。

 

③中級~下級貴族の出身

この時代の女房には、中~下級貴族出身の女性がたくさんいました。清少納言と紫式部のその階級の出身です。

とは言え、上流階級ではないものの貴族の娘ではあるので、しっかりとした教養を叩き込まれて育てられました。その教養が女房としての仕事にも役立っており、お后様への教育係としての務めを果たせたのです。

 

その結果、宮廷には教養のある才女が何人も集まっており、高い文化水準が築かれていきました。その中から枕草子や源氏物語が誕生し、ひとつの文化(国風文化)に大きな影響を与えたのです。

 

④次女

清少納言、紫式部ともに次女として生まれました。

清少納言は三男二女の次女で末っ子。父が59歳頃の子と推定され、長男とは親子ほども年齢が離れていたとされています。

紫式部は三男三女の次女(側室の子も含む)でした。

 

⑤地方で暮らしていた経験がある

清少納言と紫式部は平安京にいた印象が強いですが、数年だけ地方で暮らしていた時期がありました。

 

清少納言は、天延2年(974年)から天元元年(978年)までの約4年間を、現在の山口県で過ごしていたと言われています。清少納言が9歳~13歳の頃と推定されます。

紫式部は、長徳2年(996年)から長徳4年(998年)までの約2年間を、現在の福井県で過ごしていたと言われています。紫式部が27歳~29歳の頃推定されます。

 

なぜ地方で暮らしていたかというと、父親がその地域を治める立場だったからです。現代でいうところの県知事みたいなものです。

清少納言と紫式部の実家が中~下級貴族だったのはすでに述べた通りです。この頃の中~下級貴族は京都での政治を担うよりも地方を任されることが多かったのです。このような家格を『受領階級(ずりょうかいきゅう)』と言います。

 

⑥和歌が百人一首に選ばれている

清少納言と紫式部は歌人としても有名で、両者とも和歌が百人一首に選ばれています。百人一首に選出された二人の和歌は以下の通りです。

 

清少納言
清少納言

夜こめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

(よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおう(あふ)さかの せきはゆるさじ )

 

紫式部
紫式部

めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影

(めぐりあい(ひ)て みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よわ(は)のつきかげ)

 

作風が対照的で、2人の性格の違いがよく表現された和歌です。意味や内容などは長くなるので、以下の記事で詳しく解説してみました。

清少納言と紫式部!百人一首の意味と解説!和歌に見る性格の違いとは?
...

 

清少納言と紫式部の違いを比較

続いて違う部分を見ていきます。清少納言と紫式部を比較してみたものが以下の表になります。

いくつか補足を交えつつ解説してきます。

 

文学作品の違い

紫式部/出典:Wikipedia

清少納言と紫式部が、ともに有名な文学作品を残したことはすでに述べました。ですが、二人が残した作品のジャンルは大きく異なっています。

 

清少納言の枕草子のジャンルは『随筆』とされる場合が多いです。清少納言が感じた喜びや怒り、興味を惹かれたもの、素敵な情景などが自由に書かれています。また、清少納言自身が宮廷で過ごした数年間の出来事もたくさん書かれています。

紫式部の源氏物語『物語』であり、世界最古の女流長編小説とも言われています。主人公の光源氏(ひかるげんじ)を中心にした恋物語で、400字詰めの原稿用紙2400枚分にも及ぶ超大作です。今ではたくさんの言語に翻訳され、世界中で愛されています。

 

枕草子、源氏物語ともに現代人も思わず頷いてしまうような『あるある』『共感』が満載で、1000年前に書かれたとは思えない楽しい作品です。

 

清少納言と紫式部の本名について

現在、一般的に知られている『清少納言』と『紫式部』という名前は、彼女たちの本名ではありません。『清少納言』『紫式部』の名は『女房名(にょうぼうな)』と言われる名前で、宮仕えした際に名付けられた通称のようなものです。

 

清少納言が清原氏の娘で、紫式部が藤原氏の娘であるのは間違いないのですが、彼女たちの名前はと言うと、実はよく分かっていません。

一説には、清少納言の名前は『諾子(なぎこ)』紫式部の名前は『香子(かおりこ)』とも言われていますが、確たる史料があるわけではなく、彼女たちの本名は今も謎に包まれています。

彼女たちの本名については、コチラの記事で詳しく解説しています。

紫式部と清少納言の本名は何だったのか?女房名の由来と解説
...

 

清少納言と紫式部の生没年

清少納言と紫式部の生没年ははっきりわかっていません。同時代の人物であることは間違いないのですが、年齢的には清少納言の方が上だったとされています。

 

清少納言の生年は、康保3年(966年)頃、没年は万寿2年(1025年)頃が有力ですが、紫式部の生没年は、天禄元年(970年)~天元元年(978年)あたり、没年は長和3年(1014年)~長元4年(1031年)とかなり幅があってよくわかっていません。

なので、今回は説のひとつである天禄元年(970年)生まれ、寛仁3年(1019年)没を採用しています。

 

清少納言と紫式部の宮仕え期間

清少納言と紫式部の宮仕えの期間には諸説あるものの、

  • 清少納言→西暦993年頃~1001年頃
  • 紫式部→→西暦1005年頃~1012年以降

とされています。

二人とも生年がハッキリしていませんが、清少納言は30歳になる手前くらいの頃に、紫式部は30代半ばあたりで宮仕えを始めたのではないかと思われます。

 

清少納言と紫式部はよくライバルだったと言われるのですが、実際は宮仕えしていた時期が違い、面識は無かったのではないかと言われています。

清少納言と紫式部の本当の関係を図で解説!実はライバルじゃなかった?
...

 

清少納言と紫式部がお仕えした人物

清少納言と紫式部は仕えたのは天皇のお后様。清少納言は『藤原定子』紫式部は『藤原彰子』に仕えました。定子と彰子は『いとこ』の関係でともに藤原家(藤原北家)の女性です。

わかりやすく系図にしてみましたのでご覧ください。

 

清少納言と紫式部の結婚生活

清少納言の夫(初婚時)は『橘則光(たちばなののりみつ)』という人物で、紫式部の夫は『藤原宣孝(ふじわらののぶたか)』という人物です。

清少納言は則光との間に男の子(則光)を授かり、紫式部は宣孝との間に女の子(賢子、後の大弐三位)を授かっています。

 

ですが、清少納言は則光と約10年の結婚生活の後に性格の不一致を理由に離婚、紫式部は約2年の結婚生活で宣孝に先立たれています。離婚と死別で夫婦関係は解消されてしまったのですが、未亡人になったことが宮廷出仕のひとつの動機とも考えられています。

なお、清少納言は後に『藤原棟世』という人物と再婚しています。

 

清少納言と紫式部の性格の違い

清少納言と紫式部は、性格が真逆なことでも知られています。

清少納言の性格を要約すると以下の通り。

  • 明るい
  • 社交的
  • 目立ちたがり

 

紫式部の性格を要約すると以下の通り。

  • 人付き合いが苦手
  • 目立ちたくない
  • ネガティブ

今風に言うと、『清少納言は陽キャ』『紫式部は陰キャ』といった感じでしょうか。

 

また、二人の性格の違いには、父親の教育方針の違いも影響していたと考えらます。

清少納言の父は『清原元輔という一流歌人で、三枚目な一面を持った人物だったようです。枕草子から伝わってくる清少納言の性格は父親譲りな面もあるのではないかと考えられます。

また、元輔にとって清少納言は老年に生まれた末っ子だったので、目に入れても痛くないほどに可愛かったのではないでしょうか。きっと、のびのびと育てられたのでしょう。

 

一方、紫式部の父は『藤原為時という人物で、かなりの堅物と伝わります。女性らしく振舞うことを重視したかなり厳格な教育方針だったようで、紫式部の控えめな性格に大きな影響を与えたと思われます。

 

清少納言と紫式部の性格は、人によって好みが大きく別れる部分なのでコチラで詳しく解説してみました。

清少納言と紫式部!性格の違いを徹底比較!恋人にするならどっち?
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清少納言と紫式部の共通点と違いのまとめ

以上、清少納言と紫式部の共通点と違いでした。清少納言と紫式部は以下のように似たような境遇にあった女性でした

  • 素晴らしい文学作品を残した
  • 宮仕えを経験
  • 中~下級貴族の出身
  • 次女
  • 父とともに地方で暮らしていた経験がある
  • 和歌が百人一首に選ばれている

 

その一方で、違うところもたくさんありました。

  • 代表作のジャンルの違い
  • 宮仕えしていた期間
  • 夫との別れ
  • 性格
  • 父親の教育方針

 

日本が誇る二人の女流作家『清少納言』と『紫式部』を様々な角度から比較してみるのも、非常に面白いですよ。

清少納言と紫式部の違いは何?どんな性格?美人?本名?比較まとめ
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最後までお読みいただきありがとうございまいた。

 

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