『小倉百人一首』
鎌倉時代初期に活躍した『藤原家定(ふじわらのていか)』によって、百人の歌人が選出された百人一首。一般的に百人一首と言えば、この『小倉百人一首』のことを指します。
百人一首には『天智天皇』から『順徳院』まで、つまり飛鳥時代末期から鎌倉時代初期の計百首の和歌が収められています。(なお天智天皇とは大化の改新で有名な中大兄皇子です)
そして、百人一首に選ばれた歌人の中には、現代人も知っている有名な女性がいます。
一人は世界最古の女流随筆といわれる『枕草子』の作者『清少納言』
もう一人は、世界最古の女流長編小説『源氏物語』の作者『紫式部』
この有名女性たちが詠んだ和歌には、二人の性格が顕著に表れた大変興味深いものとなっています。
今回は、そんな二人の才女が詠んだ和歌の内容、そして、そこから見えてくる二人の性格に迫ってみたいと思います。
百人一首に見る清少納言と紫式部
百人一首62番歌 清少納言
では、まず清少納言の和歌から見ていきましょう。
百人一首に選ばれた彼女の和歌はこうです。
夜こめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
(よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおう(あふ)さかの せきはゆるさじ )
この和歌を現代風に言い換えると、このようになります。
まだ夜が明けない内に、鶏の鳴き真似をして函谷関の番人を騙しても、逢坂の関は開きませんよ。私だって騙されて戸を開けるようなことは絶対しませんから!
現代語にしても、ちょっと意味が分かりづらいかもしれませんね。
この和歌は、中国の『史記』という歴史書の孟嘗君(もうしょくん)のエピソードを例えて詠んでいます。
宮廷で漢詩の知識をひけらかしていた清少納言なので、彼女らしいと言えばらしい和歌ですが。
実はこの和歌が詠まれた経緯が、彼女の作品『枕草子』に書かれています。
中国の故事に引っ掛けたやり取りなので、ちょっと小難しい話なのですが、そのエピソードも交え出来るだけ簡単にお伝えします!
清少納言の和歌の意味
枕草子によると、この和歌は清少納言と藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい)のやり取りの中で詠まれています。
赤線部分がちょっと意味がわかりづらいと思いますので、随時解説を入れていきます。
ある夜、藤原行成と清少納言は雑談しながら過ごしていましたが、行成は用事があると言って突然帰ってしまいました。
そして翌朝、行成が清少納言に手紙を寄こしてきました。その手紙にはこう書いてありました。
『あなた(清少納言)と一緒に夜を明かそうと思っていたのですが、鶏の鳴き声にせかされまして・・・』
赤線部の『鶏の鳴き声』がポイントになります。この後『鶏の鳴き声』を巡って私と行成様のやりとりが展開されていきます
その手紙を読んだ清少納言は、早速お返事を書きました。
『その鶏の声は、函谷関(かんこくかん)の鶏だったんじゃないですか?』
『函谷関の鶏』とは孟嘗君の逸話を元にしています。その逸話とは、孟嘗君は函谷関という関所を突破する為、鶏の鳴き真似をして門を開けさせた、というお話。つまり、私は行成様が聞いた『鶏の鳴き声』は『偽の鳴き真似』だったんでしょう?と言っている訳です。要するに『行成さん、あなたは早く帰りたかっただけでしょう?』と嫌味を言っているのですよ。
すると、また行成から手紙がきました。
『いやいや、とんでもない!開いたのは函谷関ではなく、逢坂の関ですよ』
『逢坂の関』とは実際に日本にあった関所です。ここで行成様は『逢坂』に引っ掛けて『逢う(あう)→『会う(あう)』と言っているのです。つまり、『函谷関じゃなくて逢坂の関が開いたから、僕は清少納言さんに会うことが出来る!嬉しいです!』と少々クサいことを言っているのです。
この手紙を目にした清少納言は、さらに返事をしたためます。ここで清少納言は、百人一首に選出された和歌を詠むのです。
『夜こめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』
この流れを踏まえて、もう一度この和歌の現代語を見てみましょう。
『まだ夜が明けない内に、鶏の鳴き真似をして函谷関の番人を騙しても、逢坂の関は開きませんよ。私だって騙されて戸を開けるようなことは絶対しませんから!』
結果的に、行成は清少納言に突っぱねられたことになります・・・。
清少納言の和歌から感じる事
百人一首に選出された清少納言の和歌から感じる印象はこうです。
清少納言は、男性相手に一歩も引かない、気の強さがある。
この他にも、枕草子には中国の故事や漢詩を使った機知に富んだやり取りが、多く記されています。
当時は漢詩や漢字の知識は女性が持つものではないとされていました。
しかし清少納言は、そんなことに構うことなく、枕草子の中で縦横無尽に知識をひけらかしています。
強気というか、自由奔放というか、目立ちたがりというか。
清少納言の表面的な性格はこんな感じです。
しかし、枕草子の裏にあるのは清少納言の悲しい想いなので注意してください。
この辺が気になる方はこちらの記事をごらんください。
ちなみに、清少納言と藤原行成のやりとりには後日談があります。
話が逸れるので今回は割愛しますが、とても微笑ましく終わるエピソードとなっていますので、気になる方は枕草子をぜひ読んでみてください。
では、次に紫式部を見ていきましょう。
百人一首57番歌 紫式部
百人一首に選ばれた紫式部の和歌はこうです。
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月影
(めぐりあい(ひ)て みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よわ(は)のつきかげ)
なお紫式部の和歌は、清少納言のように難解ではないので現代語にすると、とても分かりやすいと思います。ちなみに、この和歌、解釈の仕方が人それぞれなので、あえて二つの現代語を載せてみます。
まずは、これ。一般的にはこっちで訳されることが多いです。
私が見たのは月だったのかも分らぬうちに隠れてしまった夜半の月、久しぶりに会えた幼馴染も、その姿がはっきり見えぬ内に姿を隠してしまいました
そして、次はこれ。僕はこっちの方が好みです。どこか哀愁があり紫式部の心が伝わってくるような気がします。
久しぶりに会えた幼馴染、楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、雲に隠れる月影のようにお別れの時が来てしまった
どちらの方が、グッときますか?
和歌とは、31文字で表現されますが、その背景には詠み手の想いが隠されています。その想いを想像しながら和歌に触れるのもまた楽しいものです。
紫式部の和歌から感じる事
あえて二つの解釈を紹介しましたが、この和歌から感じ取れる紫式部の印象はどちらも同じです。
紫式部は源氏物語の作者としてあまりにも有名ですが、その他にも『紫式部日記』というものを後世に残しています。
この日記の中で紫式部は様々な心情を吐き出していますが、そこから感じ取れるのは彼女の暗いイメージ。
人付き合いに悩み、あえて愚かなフリをし、同じ宮廷女房たちへの不満タラタラ・・・しまいには清少納言を痛烈批判。
源氏物語という長編小説を黙々と書き上げたことからも想像できますが、彼女はあまり社交的なタイプではなかったように感じます。
そんな紫式部が久しぶりに会えた仲の良い幼馴染。
どのくらいの時を一緒に過ごしたのかは分かりません。
でも、彼女はその時間がとっても楽しく、いつまでも喋っていたかった。
自分の素をさらけ出して話せる大切な幼馴染。
しかし、そんな楽しい時間は終わりを迎え、幼馴染は目の前から姿を消してしまった・・・。また一人ぼっちになってしまった・・・。
どうでしょう?
紫式部のちょっと切なく、悲しい想いが伝わってきませんか?
明るい清少納言と暗い紫式部
以上、百人一首から見えてくる清少納言と紫式部でした。
清少納言はいつも元気で活発。
そんな彼女が書いた枕草子からは、清少納言の笑い声が読む者の耳に聞こえてくるようです。
一方の紫式部。彼女はどこか影があり、その和歌にもどこか哀愁が漂います。
個人的には『和歌』という観点から見ると、僕は紫式部の方が好みですね。
和歌とは、詠む者の心、そして詠まれた時の情景。
31文字には現れていない魅力が、その裏側に隠れています。
そう言った意味で紫式部の和歌は、彼女の心や詠んだ時の情景が瞼の裏に浮かんできます。
是非あなたも和歌に触れる時は、そっと目を閉じ、その裏にある詠み手の心を覗いてみてください。
きっと、詠み手の喜怒哀楽があなたの胸にも響いてくるはずです。
藤原定家の『小倉百人一首』
以前、こんな記事を書きました。
この記事では、清少納言は『陽』、紫式部は『陰』という結論に至ったのですが、今回の記事でも同じような結果になりました。
百人一首の和歌を選んだのは『藤原定家(ふじわらのていか)』ですが、よくぞこれほどまでに彼女たちの性格を現した和歌を選んだものだと感心するばかりです。
そんな藤原定家が選んだ百首の和歌・・・それぞれに詠み手の想いや性格が詰まっています。
百人一首に触れる時は、単なるカルタ遊びとしてではなく、ぜひ和歌の内容にも目を向けてみてください。きっと百名の歌人たちも喜ぶと思いますよ!
枕草子の記述を元に、清少納言の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。
源氏物語の記述を元に、紫式部の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。
他にも、いろんな角度から二人を比較してみました。
【参考にした書籍】