藤原伊周はどんな人?藤原道長との関係や枕草子の登場シーン、人物像を解説

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枕草子のこと

藤原伊周は、摂関政治で有名な藤原道長の甥にあたる人物です。

 

藤原伊周は、清少納言が書いた枕草子にもたびたび登場し、なかなかの貴公子っぷりで描かれているのですが、一方で大鏡という書物では一転して意外な人物像が浮き彫りになっています。

 

そんな藤原伊周と藤原道長はどんな関係だったのか?また、藤原伊周の人物像など枕草子や大鏡などの記述を元に、系図を交えながらご紹介していきます。

 

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藤原伊周と藤原道長の関係

藤原伊周と藤原道長の関係を表す家系図を作成してみたので、まずはこちらをご覧ください。

藤原伊周の父親にあたる人物が藤原道隆。そして藤原道隆の弟が藤原道長です。

つまり、伊周と道長は甥と叔父の関係にあたります。

 

清少納言が仕えた定子は伊周の妹で、刀伊の入寇を蹴散らしたことで知られる藤原隆家は弟にあたります。

 

藤原伊周と藤原道長に関するエピソードもいくつか残っているのですが、その中でも最も有名なものが長徳2年(996年)に勃発した長徳の変と呼ばれる事件でしょう。

長徳の変に関しては後に詳しく解説します。

 

枕草子に描かれる藤原伊周の人物像

藤原伊周の妹 定子に清少納言が仕えていた関係で、伊周は枕草子にもちょいちょい登場します。ここでは枕草子で描かれる藤原伊周を見て行きましょう。

道隆が登場する章段(跋文含む)は、全部で9つあります。

  • 20段「清涼殿の丑寅のすみの」
  • 77段「御仏名のまたの日」
  • 95段「五月の御精進のほど」
  • 100段「淑景舎、東宮にまゐり給ふほどのことなど」
  • 125段「関白殿、黒戸より出でさせ給ふ」
  • 179段「宮に初めて参りたるころ」
  • 263段「関白殿、二月廿一日に」
  • 跋文(※枕草子の後書きみたいなもの)

 

以上の中から、藤原伊周の人柄などが伝わってくる章段や、特に印象深い章段をピックアップしてご紹介します。

※枕草子の章段数は底本によって異なるため、本記事では角川ソフィア文庫『新版 枕草子』に準じています。

 

二〇段「清涼殿の丑寅のすみの」

枕草子の中で、藤原伊周が登場する中で一番初めの章段です。

 

この章段では、伊周のファッションセンスの良さが光っており、清少納言の目にはたいそう煌びやかに映っていたようです。

この章段に限ったことではないのですが、清少納言のフィルタを通した藤原伊周は、お洒落なイケメン貴公子のような印象を受けます。

 

伊周が登場する章段の傾向として、藤原道隆の一族である中関白家(※家系図参照)の栄光を記録した章段によく出てきます。

本段ももちろんそうですし、100段「淑景舎、東宮にまゐり給ふほどのことなど」や、263段「関白殿、二月廿一日に」なども、その最たる例となります。

 

一七九段「宮にはじめてまいりたるころ」

枕草子の中で藤原伊周のキャラクターが最も色濃く出ているのが、一七九段「宮にはじめてまいりたるころではないでしょうか。

この段は、清少納言の宮仕えをして間もない頃を回想した章段で、清少納言の初々しい姿を見られることで有名です。

 

伊周は、この「宮にはじめてまいりたるころ」の後半に登場し、宮仕えの新人でガチガチに緊張していた清少納言をからかって楽しんでいる(と思われる)場面が描かれています。

 

藤原伊周、父の道隆、妹の定子、弟の隆家など、枕草子には中関白家の朗らかな一面を記録した内容が結構記されています。

高貴な人物たちも普段はこうして笑っていたんだなと実感できますし、また中関白家の明るい印象も伝わってきます。

 

なお、「宮にはじめてまいりたるころ」の内容はコチラで詳しく紹介していますので、ぜひご覧になってみてください。

枕草子『宮に初めて参りたるころ』を小説っぽく現代語訳で解説
清少納言の枕草子  一七九段「宮に初めてまいりたるころ」。この記事では、枕草子「宮に初めてまいりたるころ」から清少納言が初出仕をした時の回想録を中心に、現在の言葉で物語風にしてご紹介しています。

 

大鏡に描かれる藤原伊周の人物像

枕草子では、高貴な美男子で朗らかな人物像が描かれていた藤原伊周ですが、「大鏡(おおかがみ)」という歴史書では全く違った一面をのぞかせています。

 

簡単に言ってしまえば「2代目のぼんぼん」、あるいは「情けない男」といった感じでしょうか・・・。

叔父である藤原道長と比べて、伊周が如何に劣った存在であったかを示すようなエピソードがいくつか書かれており、伊周と道長の関係性を理解するひとつの参考にはなるかもしれません。

 

では、大鏡に記された藤原伊周の人物像を、いくつかピックアップして見ていきましょう。

 

藤原伊周を競べ弓で圧倒する藤原道長

大鏡に書かれた藤原伊周のエピソードの中で、最も有名なのが「伊周と道長の競射」の逸話でしょう。

以下、その逸話を要約して簡単にご紹介します。

 

藤原伊周様が弓で的を射ていた時、藤原道長様が現れました。

伊周様と道長様は弓を競いましたが、官位が低い方の道長様が2本差で勝利してしまったのです。

その様子をみていた伊周の父 道隆様やその従者たちは延長戦を申し出ます。

 

渋々ながらも延長戦を承諾した道長様は、

藤原道長
藤原道長

自分の家系から天皇や皇后を輩出するべきなら、この矢は命中せよ!

 

と言って射たところ、見事に的のど真ん中に命中させました。

 

一方、伊周様は緊張で手が震えてしまったのか、矢はあさっての方向へ飛んで行ってしまったのです。

藤原伊周
藤原伊周

・・・・・・

 

さらに道長様は、

藤原道長
藤原道長

私が摂政・関白になる運命ならば、この矢は命中せよ!

 

と言って射たところ、またまたど真ん中に命中。

 

伊周の父 藤原道隆様は

藤原道隆
藤原道隆

もう射るな!

と伊周様を制してしまったため、その場はシーンと静まりかえってしまいました。

 

藤原道長にたじろぐ藤原伊周

もうひとつ要約してご紹介します。

藤原道長様がお寺に参拝なさった時、「藤原伊周様が良からぬ企てをしているようです・・・」という噂が耳に入ってきたので、道長様は警戒を強めていました。

結果、特に何も起こらなかったのですが、妙な噂を立てられた伊周様は釈明の為に、道長様の元を訪れました。

伊周様はひどく気後れした様子が、ありありと滲み出ています。

藤原伊周
藤原伊周

・・・・・・・

 

ところが道長様は伊周様を冷遇することなく、とても親しみ深い対応をされていたのです。

 

このように「道長には決して敵わない伊周」とでも言わんばかりのエピソードが書かれているのです。

他にも、伊周が臨終のとき如何に情けない状況だったか?や、伊周の息子(道雅)のダメっぷりが嫌みっぽく書かれていたりもします。

 

大鏡自体が藤原道長の栄華を中心に描かれているため、結果的に道長の政敵となり、歴史的には敗者となった伊周がよく書かれていないのは仕方ないのかもしれません。

 

長徳の変の悲劇

先ほど、「道長の政敵となり、歴史的には敗者となった伊周」とお伝えしましたが、そうなった出来事が長徳の変と呼ばれる事件です。

 

長徳の変は、中関白家の没落を決定づけた事件として知られています。

 

伊周は藤原為光という人物の三女と男女の関係でした。さらに藤原為光の四女は「花山法皇(かざんほうおう)」と親しくしていました。

花山法皇は第65代の天皇にあたる方です。

つまり、伊周は為光三女と、花山法皇は為光四女と愛人関係にあったのです。

 

このような中、花山法皇が為光四女との連絡が途絶えがちになったことを危惧し、ある日為光四女の元を訪れました。

この際、伊周は「花山法皇が為光三女の元に通っているのではないか?」と勘違いしてしまいます。

 

伊周は弟の藤原隆家に相談し、帰宅途中の花山法皇に脅しの矢を射かけることにしました。

そして、為光四女の元から帰宅する花山法皇に向け、隆家の従者が脅し目的で矢を放ったところ、運悪く花山法皇の袖を射抜いてしまいました。

 

この花山法皇襲撃事件は、天皇だった人物に弓を引いた大罪とされ伊周と隆家は窮地に立たされます。

 

この時、父の関白 藤原道隆はすでに亡く、その後を継いだ藤原道兼も早世、伊周と道長が関白の地を巡って政治的に敵対していた時期です。

結果、花山法皇襲撃事件は道長によって利用され、伊周と隆家は左遷、そして政治の表舞台から去ることになりました。

 

以上が、長徳2年(996年)に発生した「長徳の変」と呼ばれる事件です。

 

中関白家の没落と枕草子

中の関白家の大黒柱 藤原道隆亡き後に起こった長徳の変で、藤原伊周と藤原隆家も失脚しました。

枕草子に記録されているような、華やかな中関白家は完全に没落していったのです。

 

実は、このような中関白家の没落の中で執筆されたのが枕草子でした。

 

すでに述べた通り、枕草子における伊周は、中関白家の栄光を記録した章段によく出てきくる傾向があります。

中関白家の栄華を記した章段は長編章段になっている場合が多く、作者の清少納言の思い入れも相当強かったものと思われます。

 

清少納言は枕草子にどのような想いを込めて執筆していたのか?その考察はコチラの記事で詳しくお伝えしていますので、ぜひご覧になってみてください。

今までの印象が覆る!清少納言が枕草子に込めた本当の意味と内容とは
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藤原伊周まとめ

以上、藤原伊周と藤原道長の関係と、伊周の人物像でした。

 

現在でもそうですが、人は多面的な性格を持っていたりもするので、今回ご紹介した藤原伊周像が全てとは思いません。

 

ただ、父 道隆の大きな威光があったからこそ輝けた人物だったことも否めない気がしています。

長徳の変での勘違いや早計な判断は、伊周の未熟さから発生したといっても過言ではありません。

また、本文では触れませんでしたが、道隆が伊周へ関白職を譲ろうとした際、一条天皇に拒否されたという逸話も残っています。

 

 

かと言って、藤原道長もあくどいやり方でトップに立っていた面もあります。

事実、枕草子では教養に溢れる一面を見せていたりもしますし、大鏡は道長を栄光を記したものなので「藤原伊周=ダメ男」と結論付けるのは早計かなとも感じます。

 

悲運のエリート貴族 藤原伊周。

あなたにはどのような人物像に映りましたか?

 

枕草子に登場する他の人物に関してもコチラで扱っていますのでぜひご覧になってみてください。

春はあけぼの!枕草子WEB辞典【清少納言と中宮定子の世界】
このページでは枕草子に関すること、作者の清少納言や周辺の人物に関してなどの情報を発信しています。基本的な部分からマニアック人物まで、新たな記事を日々配信中ですので、随時追加していきます。枕草子で気になる事に是非お役立てください。

 

【参考にした主な書籍】