清少納言と枕草子とは【年表&家系図付き!社会人向け歴史人物の超簡単解説】

清少納言(せい しょうなごん)という女性の名前は、多くの人が耳にしたことがあるのではないでしょうか?

また、清少納言が枕草子という古典の作者であることも、広く知られている事実です。

あるいは、学生時代の古典の授業で『春はあけぼの』を印象する場合も多いのかなと思います。

しかしながら、清少納言がどういった人物で、枕草子には「春はあけぼの」以外にどんなことが書かれているのかを知っている人は決して多くはないと感じています。

今回は大人になってから歴史を学びたい方向けに、清少納言や枕草子の概要、そして彼女が日本の歴史に与えた影響など、難しい専門用語は使わず、わかりやすく解説していきます。

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清少納言と枕草子の簡単解説

清少納言(せい しょうなごん)康保3年(966年)頃~ 万寿2年(1025年)頃

清少納言の生涯年表

まずは、清少納言の生涯における主な出来事をまとめた年表です。

なお、清少納言の生涯は不明な点が多いため、枕草子等の記述を元に推測した部分を多く含むことをご了承ください。年齢は数え年となります。

清少納言は何をした人?枕草子の内容は?

清少納言はどんなことをした女性なのでしょうか。

それは枕草子(まくらのそうし)』を執筆した、ということです。

この枕草子は、世界最古のエッセイ(随筆)とも言われています。

また、現在でいうところのブログの先駆者という評価もされています。

しかしながら、清少納言は作家やエッセイスト、ライターだったわけではなく、別に本業を持っていました。

その本業は『女房(にょうぼう)』と呼ばれる仕事です。

女房とは、天皇のいる宮廷ではたらく女官のことです。

清少納言は、一条天皇の奥さんである藤原定子(ふじわら の ていし)』という女性に仕え、定子の身の回りの世話、教育係を兼ねた話し相手、来客時の取次などを主に行っていました。

この定子と清少納言が宮廷で過ごした約7年間の出来事、清少納言が様々な事柄に対し感じたこと、イラっとしたこと、感動したことなどなどを記したものが枕草子です。

枕草子には、現代人も思わず共感してしまう内容がてんこ盛りで、昔も今も人間は変わっていないことを痛感することができます。

清少納言のプロフィール

【生年】

康保3年(966年)頃

ハッキリとした生年は分かっていませんが、枕草子に書かれた人間関係などから、おおよそ康保3年(966年)頃の生まれではないかと言われています。

【没年】

万寿2年(1025年)頃

ハッキリとした没年は分かっていませんが、清少納言の生存が確認できる最後の史料、または兄弟の没年などから、おおよそ万寿2年(1025年)頃に逝去したのではないかと言われています。

康保3年(966年)頃に生まれたとすると、50代後半から60歳に差し掛かるあたりで亡くなったことになり、当時としては長命だったことになります。

【家族構成】

父:清原元輔(きよはら の もとすけ)

歌人として有名な人物。

和歌の名人を集めた「三十六歌仙」の一人に名を連ねており、宮廷でもその名は知れ渡っていたものと思われます。父の名声が凄すぎて、その娘である清少納言自身が和歌を詠むことにプレッシャーを感じていたことが枕草子に書かれています。

また、清少納言は清原元輔が59歳の頃に生まれたとされ、おそらく末っ子だったのではないかと言われています。

母:不明

一説によると「檜垣嫗(ひがきおうな)」や「周防命婦(すおうのみょうぶ)」なる女性が母親なのではないかとされていますが、史料の不確実性や父 清原元輔との年齢の隔たりなどから、確たる証拠がないのが現状です。

その他には、母親の存在を窺わせる史料が一切残っておらず、全くの不明となっています。

兄:為成、致信、戒秀

姉:名前は不明

前述の通り、清少納言は清原元輔59歳の頃の子供なので、兄や姉とはかなりの年齢差があったものと思われます。

また、姉に関しては名前こそ分かりませんが、藤原理能(ふじわら の まさとう)という貴族に嫁いでいます。この理能は、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の作者『右大将道綱の母』の兄にあたる人物です。

夫:橘則光(たちばな の のりみつ)、藤原棟世(ふじわら の むねよ)

橘則光とは離婚、藤原棟世は再婚相手

子供:橘則長(たちばな の のりなが)、小馬命婦(こま の みょうぶ)

娘の小馬命婦は、定子の後任にあたる彰子(しょうし)の女房として宮仕えしています。彰子の女房には紫式部や和泉式部らがいます。

平安時代には小馬命婦という同名の女性がおり、区別するために『上東門院小馬命婦』と呼ばれることもあります。

清少納言の本名は?

現在では広く認知されている『清少納言』という名前ですが、これは彼女の本名ではありません。

『清少納言』とは、いわゆる女房名と呼ばれるものです。

当時宮廷に出仕していた女房には皆 女房名が付けられていました。

例えば同時代の紫式部も女房名であり、本名ではありません。

現代でいうところの渾名に近いもので、結果的には枕草子を書いた女性のペンネームだと捉えても良いかもしれません。

また、語呂的に『清少・納言(せいしょう・なごん)』と区切るイメージがありますが、本当は『清・少納言(せい・しょうなごん)』が正解です。

『清』は彼女の実家である清原家の清、『少納言』はハッキリ分かっていませんが、同時代の他の女房名(式部や衛門、中納言など)と同じく、おそらく清少納言の近親者に、少納言の役職に付いていた者がいたのだろうと推測されます。

なお、本名は『清原諾子(きよはら の なぎこ)』とも言われていますが、ハッキリしたことは分かっていません。

なぜ枕草子を書いたのか?

清少納言が枕草子を書いた理由。

そこには、主の藤原定子に降りかかった悲劇が大きく関係しています。

歴史が動く激動の中で、悲しみをグッとこらえながら清少納言は枕草子を書きあげました。

この解説は別記事にて詳細を簡単解説してますので、ぜひご覧ください。

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日本の歴史における清少納言

清少納言が生きた時代は、今からおよそ千年前の平安時代中期。

いわゆる国風文化が全盛期を迎えていた時代です。

この国風文化を支えた一つの要因が、清少納言を始めとする女性たちの活躍でした。

清少納言の枕草子だけでなく、紫式部の源氏物語、和泉式部和泉式部日記、他にも蜻蛉日記や更級日記、栄花物語など、数多くの女流文学が生み出されました。

また、この時代の女性たちが詠んだ和歌が、百人一首にもたくさん選出されています。

もちろん、清少納言の和歌も選ばれています。

このような女性たちの活躍が、国風文化を牽引したひとつの要因となっています。

国風文化とは日本らしさが凝縮された、言い換えるならば『和風』の文化でです。

およそ千年前に政治や軍事と関係のないところで、これだけの女性が後世に名を残している例は、世界にも類を見ません。

昨今、男女同権といった観点で様々な議論がなされています。

もちろん、平安時代が全ての面において男女同権だったわけではないです。

しかしながら、今からおよそ千年前に、文学や和歌と言った一種の娯楽文化が多くの女性たちから生み出された事実は、日本人の誇りなのではないかと思っています。

どちらが上とか下ではなくて、女性には女性の、男性には男性の活躍する場所、役割がある。

現代でも、歌舞伎には歌舞伎の魅力があるし、宝塚には宝塚の魅力があります。

そういった観点を古くから持っていたのが日本人なのではないかと感じます。

まとめ

以上、清少納言と枕草子の解説でした。

さらに深く知りたいからは、コチラの詳細版もご覧になってっみてください。

【大人向け歴史学び直し】清少納言の解説詳細版

なお、清少納言や枕草子に関しては、他にも多くの記事を執筆していますので、さらに詳しく知りたい方は、以下のリンク先も是非ご覧になってみてください。

春はあけぼの!枕草子WEB辞典【清少納言と中宮定子の世界】
ご来訪ありがとうございます。 『清少納言に恋した男』拓麻呂でございます。 このページは、枕草子WEB辞典です。内...


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