藤原隆家という人物をご存じでしょうか?藤原隆家は平安時代中期、平和ボケした日本に迫った危機を救った大英雄なのです。
また、平安時代中期を代表する人物『藤原道長』や、枕草子の作者として知られる『清少納言』とも深い関わりを持っていました。
であるにも関わらず、あまり知名度の無い藤原隆家。
今回はそんな隆家について、
- 隆家が活躍した刀伊の入寇とは?
- 隆家と藤原道長、清少納言との関係は?
といった部分を家系図など交えながらわかりやすく解説していきます。
藤原隆家と藤原道長・清少納言との関係
まずは、藤原隆家の基本情報をお伝えするにあたり、彼の家系図を見てみましょう。
前述の通り、藤原隆家自身はあまり知られていない人物なのですが、彼の周囲を取り巻く人物はかなり豪華です。
上記の系図にも名前の中で、隆家と関りの深い有名人との関係をざっと挙げて行くと、
- 時の権力者『藤原道長』の甥っ子
- 一条天皇の中宮(妻)である『藤原定子(ふじわらのていし)』の弟
- 道長の長女で後に国母(天皇の生母)となる『藤原彰子(ふじわらのしょうし)』の いとこ
- 藤原定子に仕えていた『清少納言』とも面識あり
と、かなり豪華なメンバーに囲まれています。
このように、定子や清少納言とも近い間柄だったので、隆家は『枕草子』にも登場しています。
↓枕草子における隆家の登場シーンは以下の記事で詳しく解説しています。↓
不良?ヤンキー!?若かりしころの隆家
そんな感じで、元々は高貴な家柄に生まれた隆家ですが、当時から荒くれ者、気骨のある男としても有名でした。
その性格を表す以下のようなエピソードがあります。
隆家の兄 藤原伊周(ふじわらのこれちか)と恋仲だった女性がいました。
しかし、その女性と花山法皇(第65代花山天皇)に浮気していると勘違いした伊周は、隆家にどうすべきか相談をしました。
すると隆家は武力行使を提案し、花山法皇に弓を射かけるという暴挙に及んだのです。
なおこの事件は、兄の藤原伊周の女性問題が事の発端なので、一概に隆家が悪いというわけでもないですが、彼の荒くれぶりを示すエピソードではないかと思います。
しかしながら、この暴挙を政敵だった藤原道長に利用され、藤原伊周と隆家は左遷されてしまったのです。なお、この事件を『長徳の変』と言います。
この他にも、花山法皇と賭け事に興じていたり、大酒のみだったりと言った逸話が、当時の記録に残っていたり、その一方で、容姿端麗なイケメンでもあったらしいので、藤原隆家はちょっと悪い感じのワイルドな男だったような印象を受けますね。
なお枕草子を読む限り、隆家の父の道隆、兄の伊周も共にイケメン、姉の定子も美人だったような感じがします。
日本を救った大英断!刀伊の入寇を粉砕
そんな隆家ですが、左遷が解け、一時期京都に戻ってきます。しかし、間もなくして、自らの意志で九州の太宰府に下っていきました。
理由は、自らの眼病治療と、時の天皇『三条天皇』の眼病を祈祷するためでした。この当時、九州には眼病治療の名医がいたからです。
そして、この時に日本を揺るがす大事件が起こります。
それが『刀伊の入寇(といのにゅうこう)』です。
『刀伊の入寇』とは、満州あたりの女真族(じょしんぞく)によって結成された海賊が、九州に侵攻してきた事件。
女真族は、壱岐・対馬を蹂躙し、博多に上陸し侵攻を開始しました。
これに応戦したのが藤原隆家です。
隆家は持ち前の豪胆さで九州の武士団や海賊衆を招集、陣頭指揮をとり女真族と激突しました。
この時の日本軍には『大蔵種材(おおくらのたねき)』なる齢70を超える老将も参戦し、獅子奮迅の働きをしたと伝わっています。
今でこそ70歳でもまだまだお元気な方は多いですが、平安時代の70歳と言ったら現在の100歳くらいの感覚かと思われます。
つまり、そのようなご老人を動員せねばならないほど、事態は逼迫していたのでしょう。
そして、隆家や種材の大活躍により、女真族は撃退され日本軍は勝利したのです。
後手後手だった京都の公家たち
実はこの時、京都にも刀伊の入寇の情報は入っていました。
しかし、京都の権力者たちは、事態が収まることを祈るばかりで、具体的な対策を講じることができませんでした。
この時代は、遣唐使も廃止された平和ボケの時代です。
つまり、外圧に対する免疫がなかった中央政府は、何もすることができなかったのです。
しかも、京都の中央政府では『今回の隆家の件は、朝廷からの支持を待たず隆家が独断で行ったことなので恩賞は不要』などといった意見まで出る始末。
結果的にこの意見は却下され、恩賞は与えられたのですが、このグダグダな感じ、決して他人事ではなく、現在の平和ボケした日本でも、十分同じことが起こりうるのではないでしょうか。
ともかくも、頼りない政府の指示を待たず、隆家は独断で決戦に臨み、外圧を跳ねのけました。
刀伊の入寇とは、何も出来なかった政府を尻目に、隆家が独断で戦って女真族を追い払った素晴らしい出来事だったのです。
藤原隆家と刀伊の入寇から考える現代の日本
以上、藤原隆家と刀伊の入寇でした。
平安時代というと、貴族がのほほんと暮らしていたようなイメージがありますが、こんな外からの圧力もあったのです。
そして、この国難を救ったのが藤原隆家でした。
規模は違えど、鎌倉時代の元寇を跳ねのけた北条時宗に勝るとも劣らない活躍ではないでしょうか。
平和な時代だった平安中期にあって、このような外圧があり、それを粉砕した英雄がいたことは、もっと大きく扱われるべきだと思います。
平和な時代だったが故に、何も出来なかった中央政府。
刀伊の入寇は、藤原隆家がたまたま九州にいたことで事なきを得ましたが、果たして現代で同じことが起こった場合、日本は対応出来るのか・・・。
ここには、現代の日本が大いに参考にすべき教訓が隠されているのではないでしょうか。
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