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拓麻呂です。
この記事では『小早川隆景』を、西暦や歴史の難しい用語を使わず簡単に解説します。
小早川隆景を簡単解説
小早川隆景の基本情報
小早川隆景は、戦国時代の中期から後期の人物です。
織田信長や豊臣秀吉と同年代です。
中国地方を制覇した毛利元就の三男。
兄は毛利隆元と吉川元春。
とくに吉川元春、小早川隆景は、両者とも名字に『川』が付くことから『毛利の両川(もうりのりょうせん)』とも呼ばれています。
晩年には豊臣秀吉政権下において、政務の中枢を担う五大老に列せられました。
実子がなかったため養子を迎えていますが、この養子が関ヶ原の戦いで西軍を裏切る有名な武将『小早川秀秋』です。
享年は65歳。
一般的には、元就の知略を最も色濃く受け継いだ人物とも言われ、世渡り上手な知将として評価されています。
小早川家に養子入り
隆景は毛利元就の三男ですが、名字は『小早川』です。
これは子供の頃、小早川家の養子に出されているからです。
これは、山陽方面(瀬戸内海側)に勢力を誇っていた小早川家の養子に隆景を送り込むことで、毛利家の地盤を固めようと言う元就の謀略です。
その結果、隆景は小早川家の当主となり、毛利家の勢力は拡大しました。
また、小早川家は水軍力にも優れていました。
この小早川家の水軍が、元就の飛躍のキッカケとなった『厳島の戦い』で大活躍しています。
本能寺の変と秀吉への対応
隆景の活躍と言えば、個人的には、本能寺の変が発生した時の秀吉への対応ではないかと思います。
本能寺で織田信長が討たれた時、毛利と織田は敵対していました。
織田軍の中国方面の攻略を担当していた秀吉は、毛利軍を率いる隆景(と兄の元春)と対峙していました。
その最中で本能寺の変が発生し、秀吉は明智光秀を討つため撤退を始めます。
これは毛利にしてみれば千載一遇の大チャンスです。
背を見せ退却していく秀吉軍を追撃すれば、大打撃を与えられます。
しかし、隆景は追撃をせず、秀吉軍の撤退を傍観しました。
これは、隆景が秀吉の実力を見抜いていたからだと言われています。
つまり、ここで追撃しなければ秀吉は必ず毛利に感謝する、秀吉が光秀を討ち、後に天下に覇を唱えた時に、毛利は優遇される。
このように時世を読み、あえて追撃をしなかったという見方があります。
実際、この後の歴史は隆景の読み通りになり、毛利家と小早川家は秀吉政権下で重用されることとなったのです。
隆景があと3年長生きしていたら・・
隆景は関ヶ原の戦いが起こる3年前に、この世を去りました。
前述の通り、関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけたのは『小早川秀秋』の裏切りです。
また、毛利本隊と吉川軍も傍観を決め込み、戦闘に参加しませんでした。
関ヶ原が起こる十年以上前には、隆元、元春の兄たちはすでに亡くなっており、毛利家当主こそ輝元でしたが、実質的に毛利家の舵を取っていたのは隆景でした。
もし隆景があと3年長生きし、関ヶ原の戦いを迎えていたら、養子の秀秋は裏切り行為に及んだだろうか?
毛利本隊は、戦場でどう動いていたんだろうか?
そもそも、隆景が生きていれば、毛利は西軍の総大将になっていたのだろうか??
ひょっとしたら、毛利は徳川に味方する!とか言っていたかもしれません。
隆景が生きていても、関ヶ原の戦いは起こったと思います。
ですが、関ヶ原での毛利や小早川の動きは大きく変わっていた可能性があります。
そう考えると隆景があと3年長生きしていたら、関ヶ原の結果は変わり、その後の歴史も変わっていたのかなと妄想してしまいます。
小早川隆景をもっと詳しく知りたい方はコチラをご覧ください。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。