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拓麻呂です。
武田四天王(四名臣)の一人。
高坂昌信
武田信玄との恋物語でも知られる、武田軍きっての美男子です。
そんな昌信を心から愛した武田信玄の心情を物語る手紙が残されています。
今回は、昌信と信玄の主従関係を超えたBLの物語と、高坂昌信の人物像に迫ってみたいと思います。
※昨今は『高坂昌信』ではなく『春日虎綱』が正しい名であったことが分かっています。ですが、煩雑さを避ける為、一般的に知られている『高坂昌信』で統一します。予めご了承ください。
逃げ弾正 高坂昌信
武田信玄 必死の弁明
高坂昌信を代表する逸話として、武田信玄からの手紙があります。
と言うのも、二人は男色関係あったとされ、信玄に浮気の疑惑がかかり、昌信がヘソを曲げてしまった際に、信玄が昌信に宛てた弁明の手紙(とされる)が現存しています。
信玄は『弥七郎』という部下に言い寄ったらしく、その事実を知った昌信が嫉妬していた、ということです。
信玄の手紙の内容は、だいたい以下のような内容になります。
弥七郎に言い寄ったのは事実ですが、腹が痛いと言って拒絶されました。本当です・・
弥七郎と夜を共にしたことはありません。以前からそんなことはしていません。昼間でもそんなことしていません。今夜だって、そんなことになるはずがありません。
あなたと結ばれたいと想っているのに、疑われて困り果てています。
嘘ではありません。嘘であれば天罰を受けるでしょう。本来なら宝印に記すべきなのですが、役人の目とかもあるので、普通の紙に書きました。明日また、きちんとした形で書き直します。
どうでしょう・・・??
なかなか切実な想いのたけを綴っています。
信玄のような名将が、フラれても未練タラタラの男のようになっています。
特に4つ目にある『宝印に記すべきですが、普通の紙に書いた』という部分に信玄の焦りが見て取れます。
つまり、仏に誓い形式にのっとって潔白を表明するべきですが、とにかく早く疑いを晴らしたいので普通の紙に書いて潔白を表明した。
ということです。
この手紙が、昌信へのラブレターと言われる信玄のお手紙です。
男色は当たり前だった戦国時代
とは言え、信玄と昌信は同性愛者だったわけではありません。
信玄も昌信も、きちんと女性の奥さんがおり、子供を授かっています。
当時は男性同士が夜と共にすることは珍しくないのです。
主君の身の回りのお世話をする『小姓(こしょう)』。
小姓は、だいたい10代半ばくらいの若い男性。
この小姓が、主君の男色のお相手になります。
有名なところでは、織田信長と森蘭丸。
あるいは、徳川家康と井伊直政。
森蘭丸は信長の小姓として有名です。
そして、高坂昌信も元々信玄の小姓であり、井伊直政も家康の小姓あがりです。
では、なぜ男色が普通だったのかと言うと、当時の女性に対する意識が大きく影響しています。
と言うのも、戦は男性が行う神聖なものなので、女性は戦場に連れていけません。
現代では考えられないような男女の差が、当時はあります。
日本は古来より『血』を忌み嫌う『穢れ』という風習があります。
しかしながら、女性は生理や出産の際に血を伴います。
戦国時代くらいだと、まだ『穢れ』に対する意識は強いので、戦場に女性を連れていくことは許されません。
また、戦の三日前から女性に触れてはならないという考えもありました。
そんな時に、主君の夜のお相手となったのが小姓です。
もしかしたら、戦の前に女性の色香に惑わされることを回避する意味もあったのかもしれません。
そして、男色とは出世街道のような意味合いもあります。
つまり、小姓の内に主君に気に入られれば、後に出世への道が大きく開けてきます。
元服後に活躍する為の地ならしが、男色でもあったわけです。
高坂昌信の人物像
という事で、高坂昌信と武田信玄の恋愛事情を見てきましたが、ここからは高坂昌信の『男色』以外の人物像に迫ってみたいと思います。
本当の名前
冒頭でも少し触れましたが、現在では『高坂昌信』という名前は誤りとされています。
『高坂』は『香坂』の誤記。
そして彼の本当の名前は『虎綱』です。
『昌信』とは出家後の法名で、『まさのぶ』ではなく『しょうしん』なのでは?とも言われています。
そして『香坂』は虎綱が養子入りした家なので、元々は『春日』です。
なので現在は『春日虎綱』という名前に改められています。
逃げ弾正
武田家には『弾正忠(だんじょうのじょう、だんじょうのちゅう)』という役職を名乗った3人の武将がおり『三弾正(さんだんじょう)』と呼ばれています。
一人は『攻め弾正』真田幸隆、なおこの人は真田幸村の祖父にあたります。
もう一人は『槍弾正』保科正俊。
そして『逃げ弾正』高坂昌信です。
『逃げ』というと、なんだか微妙な感じがしますが、決して逃げ足が速かったとかではなく、『無理攻めせず、冷静沈着な戦をした男』という意味です。
異例の大出世
戦国時代に大出世した人物と言えば、やはり豊臣秀吉ですが、実は高坂昌信もかなりの出世を遂げた人物です。
昌信も元々は農民の出身で、代々武田家に仕えた武門の家柄ではありません。
そんな農民の男子を武田信玄は引き立て、後に上杉謙信の抑えとなる海津城の守備を任せています。
秀吉のような天下人になれた訳ではありませんが、農民から一城まで任されるような人物になった昌信は、かなり珍しいケースです。
少し余談ですが、武田信玄は身分の低い人物を取り立て、重臣としているケースがかなりあります。
昌信と同じ四天王の『馬場信春』『内藤昌豊』なども元々は重臣ではありませんでした。
よく身分に関係なく登用した信長の先進性が取り上げられたりしますが、それは信長の専売特許ではないのです。
甲陽軍鑑
昌信の実績として名高いのが『甲陽軍鑑』の原著者とされている点です。
『甲陽軍鑑』は、武田流軍学をまとめたものです。
現在伝わっている甲陽軍鑑は、昌信亡き後、数人が編纂を引き継ぎ、最終的には『小幡景憲』という人が完成させた物だと言われています。
長篠の戦いの果てに
1575年。
武田信玄亡き後、勝頼が後を継ぎ、織田・徳川連合軍と激突した『長篠の戦い』
この戦いで武田は完敗し、滅亡への道を歩み始めます。
長篠では、武田を代表する多くの勇将たちが犠牲となります。
昌信と同じ四天王に数えられる
不死身の鬼美濃『馬場信春』
武田の副将『内藤昌豊』
赤備えの猛将『山県昌景』
昌信と共に信玄の覇業を支え、共に歩んできた彼らも皆、長篠の地で乱れ飛ぶ銃弾の犠牲になりました。
しかし・・・
逃げ弾正『高坂昌信』
彼は、北方の上杉を警戒するため海津城を守っており、長篠には参戦出来ませんでした。
信玄に取り立てられ、そして愛され、武田に忠節を誓い続けた高坂昌信。
そんな武田家を共に支えてきた盟友たちが、戦場の露と消えた長篠の敗戦。
敗戦の報を受けた時の昌信の心情はどれ程のものであったか・・・?
想像に難くありません。
多くの犠牲を払いながらも、なんとか逃げ延びた武田勝頼。
昌信は新しい旗指物を用意し、ボロボロになった勝頼を出迎えました。
信玄の後を継ぎ、武田の主となった勝頼。
彼が戦に敗れ、泥まみれになった姿など見たくない・・。
恩人である信玄の後継者に相応しい、威厳ある姿であってほしい・・。
きっと、そんな想いだったに違いありません。
長篠の戦いから約3年後、昌信は病を得てこの世を去りました。
享年52
幼いころより信玄に愛され、最後まで武田に尽くしきった生涯でした。
昌信と同じ武田四天王『山県昌景』の記事はコチラです。
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。