源氏物語の作者『紫式部』。
枕草子の作者『清少納言』。
日本史上とても有名な女性たちですが、彼女たちの子供はどんな人物だったのでしょうか?
この記事では、紫式部と清少納言の娘についてお伝えします。
紫式部と清少納言の娘たち
紫式部の娘『大弐三位』
紫式部には『大弐三位(だいにのさんみ)』という娘がいました。本名は『賢子(かたいこ、けんし)』と言います。
他にも、藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)などという呼称もありますが、一般的には女房名である『大弐三位』と呼ばれています。
『大弐三位』は『藤原宣孝(ふじわらののぶたか)』という夫との間に生まれた子供です。
成長してからは宮廷出仕をしており、母の紫式部と同様 彰子に仕え『大弐三位』という女房名で呼ばれるようになりました。
大弐三位は、第70代 五冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の乳母も務めるなど、宮廷での存在感を示していました。
母親の紫式部が控えめな性格だったのに対し、『大弐三位』はとても積極的な恋愛上手だったと言われており、恋に関わる和歌も複数残しています。
そんな彼女の和歌は百人一首にも選出されており、歌人としての才能にも恵まれた女性でした。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
ハッキリした没年は分かっていませんが、80歳を超え当時としてはかなりの長寿だったようです。
なお、『大弐三位』の血筋は現在まで続いているそうで、つまり紫式部のご子孫が今もいらっしゃるというこですね。
清少納言の娘『小馬命婦』
一方の清少納言には『小馬命婦(こまのみょうぶ)』という娘がいました。
清少納言には橘則光という夫がいましたが、則光とは『則長』という男児を授かっていて、娘の『小馬命婦(こまのみょうぶ)』は、再婚相手の『藤原棟世(ふじわらのむねよ)』との間に生まれた子供でした。
小馬命婦は紫式部の娘である『大弐三位』に比べると、残っている情報が少なく実像がつかみにくい女性です。
成長してからは、母の清少納言と同様に宮廷出仕をしており、彰子に仕えています。なので『小馬命婦』は女房名なのですが、本名は伝わっていません。
近い時代に『小馬命婦』という同名の女性が存在していたため、清少納言の娘の方は『上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)』と呼び区別しています。
小馬命婦に関しては、コチラの記事でも詳しく解説しています。
まとめ
以上、紫式部と清少納言の子供たちについてでした。
紫式部の娘は『大弐三位』
清少納言の娘は『小馬命婦』
共に宮廷出仕し、彰子に仕えていました。
紫式部と清少納言は面識がなかったと言われていますが、娘たちは職場の同僚みたいなものだったので、もしかしたら仲の良い友人だったのかもしれませんね。
枕草子の記述を元に、清少納言の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。
源氏物語の記述を元に、紫式部の顔を3Dで復元してみた記事はコチラ。
他にも、いろんな角度から二人を比較してみました。