平安時代の貴族の結婚は現代と大違いだった?成立の仕方や結婚年齢とは

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平安時代の女性たち

源氏物語や和泉式部日記などに見られるような、男女の熱い恋愛が行われていた平安時代の貴族社会。なんとなく華やかな恋愛模様を連想しがちですが、実際はどうだったのでしょうか?

 

実は、平安時代の結婚は現代では想像もできないようなルールが存在していたのです。

この記事では、平安時代の結婚に関する様々な決まりごとを解説していきます。

 

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平安時代の結婚適齢期

平安時代の貴族の結婚は基本的に恋愛結婚なので、その点は現代とさほど変わりません。

 

では、結婚年齢はどのくらいだったかというと、基本的に男性は15歳以上、女性は13歳以上という決まりがあり、現代よりはかなり早く結婚していました。しかし、当時の人たちの結婚年齢を見てみると、実際はかなり幅があったようです。いくつか例を挙げてみます。

※結婚年齢には諸説あります。また、年齢は数え年となります。

 

このように、だいたい10代後半頃から結婚し始めているので、現代よりは結婚適齢期が早かったことが分かります。当時は今より平均寿命が短かったので、その分結婚も早かったのです。

その中でも、紫式部の29歳、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の33歳は、現代の結婚適齢期とさほど変わらず、当時としてはかなりの晩婚だったようです。

 

このように、基本的には現代より早い結婚でしたが、人によってはかなり晩婚になる場合もあったのです。現代の結婚の平均年齢は30歳前後ですが、それよりも早く結婚したり遅く結婚したりする夫婦がいるように、結婚年齢が人それぞれなのは、平安時代も現代も変わらなかったようですね。

 

平安時代の結婚に至るまでの流れ

社内恋愛でも合コンでもお見合いでも、実際にお付き合いをして入籍にいたるというのが、現代の結婚までの流れです。ですが、平安時代の貴族たちは男女の出会い方からして、現代とは大きく異なっていました。

平安貴族たちの結婚までの流れをザっと表にしてみましたのでご覧ください。

では、実際にどうやって男女が出会い結婚に至っていたのか、以下より詳しく見て行きましょう。

結婚するまで相手の顔が分からない

現代では、恋愛結婚でもお見合いでも、相手の顔がわからないまま結婚することはほとんど有り得ません。ですが、平安時代の貴族たちは、相手の顔を知らないまま恋に落ち、結婚して初めて相手の顔を見ることができたのです。現代では考えられませんが、当時はそれが普通だったのです。

 

当時は、「成人女性が男性に顔を見られるのは恥ずかしいこと」といった価値観が当たり前だったので、女性たちは扇で顔を隠していたり、御簾(みす)という簾(すだれ)の一種で室内を隠し、部屋の中に引きこもっていました。

なので、男性貴族は女性の顔を見ることができなかったのです。

 

このような状況だったので、女性の顔が露わになりやすい宮仕えには、良くない印象を持っていた人たちがそれなりに存在していたようです。そのことを感じさせる内容が、枕草子や更級日記などに書かれています。

 

相手を知るために大事な「噂話」

ところで相手の顔が分からないまま、人を好きになることがあるのでしょうか?現代の感覚では少し不思議に感じるかもしれません。でも、顔を知らない異性の素敵な噂を聞いたりした場合、想像力が膨らんでお相手のことが気になってしまう気がしませんか?

 

実は当時も、相手を知るための大事な手段が「噂」でした。

「どこそこに年頃の娘さんがいて、たいそう麗しいお方らしい」といったような風評が、女性に仕える女房などから伝わり、男性の耳に入ってくるのです。こうして男性たちは想像を膨らませていき、女性に好意を抱いていったのです。

 

とは言え、男性たちも「噂の女性の姿を一目見てみたい」といった欲望を満たすため、女性の住んでいる家を覗き見したりしていました。現代だとストーカー行為になりまねませんが、当時としては女性の姿を確認する数少ない方法だったのです。その結果、御簾の向こうに女性の影が見えたり、時には運よく御簾がめくれて、女性の姿を見られたりする場合もあったようです。

 

和歌のやりとりで恋が始まる

噂を聞きつけて気になる女性がいた場合、いよいよ男性側からのアプローチが始まりますが、直接会うことはできません。そこで、女性とコンタクトをとるための手段が「和歌」なのです。

 

男性は意中の女性への想いを込めて和歌を贈ります。現代人の感覚だと想いを込めた手紙を書いて贈るような感じでしょうか。(あるいはメールやLINEを送るという感じかもしれませんが、それだとちょっと軽い気もしますね)

そして女性から返事がくれば脈ありのサインなのですが、脈なしの場合は返事が来ないケースもありました。

 

しかし、女性が返事をしたからと言って、いきなりOKの返事(和歌)がもらえる訳ではありません。実は、女性からのお返事が来てからが本当の勝負だったのです。

 

女性の返事はお断りからスタート

男性から求愛の和歌が届けば、女性としても気持ちが高揚したりもしたと思われますが、いきなり心を許すようなことはありません。はじめのうちは「お断り」とも取れるような返事を出すのが定番でした。

 

それでも男性は諦めずに求愛の和歌を贈り続け、女性も返事をするのですがなかなかOKはもらえません。和歌のやりとりをしている間も、女性の側は男性の教養や和歌の実力を査定していました。相手の容姿がわからないまま男女の仲を築いていくこの時代、和歌の腕前や教養の有無はその人の魅力を判断する大事な要素だったのです。言い換えれば、和歌がイマイチだったり教養が無かったりする人は「魅力のない人」というレッテルを貼られてしまうのです。

 

また、やりとりを始めたばかりの頃は、女性が直接お返事を書いたりはしません。女性に仕えている女房や、時には母親が代筆をしていました。なので、男性としては「意中の女性が直接書いた字が見てみたい」といった気持ちも強く持っていたようです。

 

現代でも、手書きの時には書き手のキャラが反映されているような印象を受けたりしませんか。あるいは、意中の相手が書いた字を見て「素敵な筆跡だな」と感じたりとか。この辺の感覚は、昔も今も変わらなかったようですね。

 

御簾越しに話をするチャンスがあった

和歌の贈答を繰り返していく中で、ある程度の親密度になってくると、女性の部屋の前まで行って御簾越しに会話をしたりする機会もあったようです。

 

ですが、あくまで御簾越しなので直接女性を見ることはできません。また、女性は扇で顔を隠していますから本当に会話だけです。とは言え、御簾越しにシルエットは確認できたり、直接会話をして声を聴けたりしたでしょうから、手紙のやりとりだけしかしていなかった時に比べれば、意中の女性をかなり身近に感じられてのではないでしょうか。

 

女性の両親の意思も重要

何度も和歌のやりとりを行い、お互いの気持ちが近づいてくればいよいよ結婚間近となります。しかし、本人同士の気持ちだけでなく、女性側の両親の意向もとても重要視されていました。

 

この時代の結婚形態は基本的に「婿入り婚」が普通で男性が女性の実家に入ります。とは言え、妻の実家に同居するわけではなく、妻問婚(通い婚)と言う男性が女性の家に通う形態が一般的で、普段は別居状態です。また、子供も女性の実家で育てられたり、結婚式の費用は妻の実家が捻出したりしていまた。

 

つまり、結婚後は女性の実家がいろいろと面倒を見なければいけなかったので、女性側の両親に気に入られることはとても重要だったのです。

 

結婚の成立と披露宴

お互いが親密になり、女性側の両親にも認められるといよいよ結婚です。

まずは仲介者(現在の仲人)が二人の間を取り持ちます。仲介者は女性に仕えている女房などが抜擢されていました。最初の噂話から結婚の仲介者まで務めていた女房は、主の結婚に対しても重要な役割を担っていたことがわかりますね。

 

そして縁起の良い日を選んで、早朝に男性から女性に手紙を贈りその日の夜に男性が女性の元を訪れます。こうして、いよいよ結婚の儀式が開始されます。ここでは、結婚が決まってからの流れを見て行きましょう。

 

男性が女性の元へ3日間通い続ける

まず大前提として結婚が決まったら、男性が女性の元へ夜な夜な3日間通い続けなければなりません。もし途中で通わなくなったら結婚の意志が無いと判断されてしまいます。これまで何度も手紙のやりとりをし、ようやく結ばれたわかですから、男性は意地でも3日間は女性のところを訪れなければなりません。

 

夜に女性のところにやってきた男性は、この時に初めて御簾の内側に入ることが許されます。明りがあるとはいえ現代の電気のような明るさではなかったため、ぼんやりとしか相手を確認することができなかったかもしれませんが、それでも憧れの相手と直接対面できる瞬間は、大きな喜びがあったのではないでしょうか。

そして、御簾の中で二人きりになったカップルに布団をかける儀式が行われます。この儀式を「衾覆い(ふすまおおい)」と言います。こうしてその晩、2人は晴れて男女の関係となるのです。

 

なお、この3日間は女性の両親も気が気ではありません。もし男性が途中で来なくなったら娘の結婚が破談になってしまうからです。そこでこの3日間、女性の両親はやってきた男性の靴を抱いて寝るという風習があったそうです。この習わしには「男性が他のところへ行ってしまわないように」という願いが込められていたと言われています。

 

お互いの家を繋ぐ灯

3日間女性の元に通う男性は初日の夜、従者を引き連れて女性の家に向かいます。その際、男性側は火を灯した松明を手にしています。そして、女性の家に灯してある火と合わせるのです。この風習を「火合わせ」と言います。

 

この際に使われたのが「紙燭(しそく)」と言われる紙をコヨリ状にして油を染み込ませたものです。紙燭に火を移し、その火は2人が初夜を過ごす御簾の前にある燈篭に灯されます。この火は、結ばれた両家の繋がりを示すもので、男性が通ってくる3日間は絶対消してはいけない決まりになっていました。

 

ありがとうの気持ちを伝える後朝の文

初日の夜が明けると、男性は長居をせずにそそくさと家に帰ってしまいます。なんだか冷たいような気もしますが、これも当時の決まりの一つでした。前夜の想いを込めたお手紙を女性に贈るためです。

 

男性は、初めて一夜を共にできた感謝の気持ちや、楽しかった気持ちや嬉しかった気持ちなどを素早く女性に届けます。この手紙を後朝の文(きぬぎぬのふみ)」と言います。後朝の文は素早く贈ることがマナーだったので、男性は朝イチで帰る必要があったのです。もし後朝の文が届かなかった場合は、男性に結婚の意志が無くなったことを示しています。なので女性はドキドキしながら後朝の文を待っていました。

 

現代でもデートの後には、その日の感謝の気持ちなどをLINEやメールで送ったりすると思いますが、平安時代にも同じようなことが行われていたんですね。

 

3日目に行われる披露宴

2日目も女性の元に通い一夜を過ごした後、いよいよ最終日の3日目を迎えます。3日目も無事に男性が通ってくれば完全に結婚成立となるので、いくつかのイベントが行われるとても大事な日です。

 

まず新たに夫婦となる2人は、新婦の実家が用意した餅を食べました。この風習は「三日夜の餅(みかよのもち)」と呼ばれています。そして、新婦の実家が準備してくれた衣装を新郎が着ることで、一つの家族になった証明となりました。

 

その後、新郎が新婦の両親と対面、新婦の親族などと一緒に宴が始まります。この宴が現在で言うところの結婚披露宴のようなもので「露顕(ところあらわし)」と言いました。

源氏物語絵巻に描かれた露顕の様子/Wikipediaより

こうしてついに結婚が成立、二人の男女は晴れて夫婦となり、妻の実家に堂々と出入りできるようになるのでした。

 

なお、現在では両家の実家に挨拶に行き、結婚式にも両家の親族が参加するのが普通ですが、この時代は男性側の親族は結婚に関してほとんど関わりませんでした。あくまで女性の実家が主導していく必要があったのです。

 

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平安時代の結婚までの過程は現在と全然違っていた

平安時代は以上のような経緯を辿って結婚が成立していました。現在と平安時代では、結婚までの道のりが大きく違っていたこと、また結婚までには大変な過程を踏んでいかなければならないことなどがお分かりいただけたかと思います。

 

とは言え、現在も結婚となると様々な段取りや挨拶まわりなど、少々面倒な過程を踏まないといけませんよね。結婚まで流れは違っても、女性を射止め結婚成立に漕ぎつけるまでの苦労は、今も昔も変わらなかったのです。また恋愛結婚が主流だった点でも、現代と近い部分がありました。

 

また、当時は10代後半に結婚するのは決して珍しいことではありませんでした。清少納言などは16歳頃に結婚していますが、枕草子を書いていたのは30代頃で毒舌も冴えわたっています。しかし、清少納言にも恋の手紙をやりとりするような、16歳の初々しい時代があったのかなと想像すると、ちょっと面白い気がしますね。

 

最後に再度、平安貴族たちの結婚までの流れを表にしたものを掲載します。最後までお読みいただきありがとうございました。

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