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拓麻呂です。
幕末に登場した『有馬新七』という男をご存知でしょうか?
時代が時代なだけに、幕末の人物は壮絶な最後を遂げた者も少なくありませんが、この有馬新七は、その中でも特筆すべき壮絶な最後を遂げています。
彼が壮絶な最後を遂げた事件は『寺田屋事件』、あるいは『寺田屋騒動』と呼ばれています。
そして、この事件を主導していたのが、薩摩藩の実権を握る『島津久光』です。
今回は、薩摩藩の壮絶なる同士討ち、『寺田屋事件』と有馬新七の壮絶な最後、そして島津久光が取った苛烈な決断に迫ってみたいと思います。
※幕末には坂本龍馬が襲われた、もう一つの寺田屋事件が存在しますが、今回はそちらには触れません。ご了承ください。
有馬新七、寺田屋に散る
寺田屋事件(騒動)とは?
では、まず寺田屋事件の概要にについて。
寺田屋とは当時の船宿で、女将は『お登勢(おとせ)』という女性。
坂本龍馬や、妻のお龍とも親交があったことで知られています。
この寺田屋で発生した、薩摩藩士たちの壮絶な斬り合いが『寺田屋事件』です。
なぜ同胞であるはずの薩摩藩士同士が壮絶な斬り合いになってしまったのでしょうか?
それは、当時の思想の違いによるものです。
いわゆる『尊王攘夷』です。
幕末とは、ペリー黒船来航により日本が外国の脅威に直面した時代。
日本は天皇を頂点とし、外国の干渉は受けない、外国は追い払うのみ!!
これが『尊王攘夷』という思想です。
外国を受け入れるか否か?
この考え方の違いが『寺田屋事件』の発生原因になります。
事件の経緯
当時、過激な尊王攘夷を唱える薩摩藩士たちが寺田屋に集結し、武力蜂起を企てていました。
その背景にあるのが薩摩藩の実力者『島津久光』の存在です。
久光は中央政界進出を目指し京都にやってきます。
久光上洛に合わせ、挙兵しようというのが、尊攘派志士たちの考えです。
ところが、薩摩の尊攘派志士たちの動きを警戒した朝廷は、久光に取り締まりを命じます。
つまり、武力蜂起しようとする尊攘派志士たちを何とかせよ!ということです。
久光は、これを受諾。
久光にしてみれば、事を鎮め朝廷からの信任を得ることで、中央へ進出する為の大きな足掛かりを得られます。
早速、久光は尊攘派志士たちの鎮撫に乗り出します。
久光は、尊攘派志士を鎮める為、自身に付き従っていた薩摩藩士による『鎮撫隊(ちんぶたい)』を結成。
9人で編成された鎮撫隊は、皆、剣の達人です。
鎮撫隊は寺田屋に向かいます。
始めは説得を試みていた鎮撫隊ですが、尊攘派志士たちが応じる気配が無いことを悟り、寺田屋内に抜刀突入!!
久光の命による上意討ち。
顔見知りでもあり、友人でもあった薩摩藩士たちによる、壮絶なる斬り合いが始まってしまいました。
奮戦!有馬新七
この時、寺田屋にいたのが、尊攘派の中心人物である『有馬新七』です。
『上意!!』
いきなり鎮撫隊の道島五郎兵衛が、尊攘派の田中謙助の眉間を一刀両断。
目玉が飛び出した田中は、その場で絶命。
続いて鎮撫隊の山口金之進の太刀により、攘夷派 柴山愛次郎の首が地面に落ちます。
突然の襲撃を受けた攘夷派志士たち。
事態を把握した有馬も抜刀。
鎮撫隊に斬りかかります。
最初の一刀を放った鎮撫隊 道島と渡り合う有馬新七。
尊攘派 森山新語左衛門は、有馬救援のため、脇差で奮戦するも一刀両断。
その場に崩れ落ちる森山。
2階にいた弟子丸龍助(でしまる りゅうすけ)も事態に気付き参戦、しかし鎮撫隊『大山格之助』に腰を斬られ絶命。
西郷隆盛の盟友として知られる大山格之助も、鎮撫隊に参加していたのです。
次々と倒れていく尊攘派志士たち。
それでもなお、道島と太刀を交えていた有馬でしたが、不運なことに有馬の刀は折れてしまいました。
丸腰になった有馬。
彼はその身一つで道島に突撃。
道島を壁に押さえつけた有馬の最後の咆哮が寺田屋に響き渡りました。
『おい(俺)ごと刺せっ!!おいごと刺せえっ!!!!!!』
同士たちは倒れ、もはやこれまでと悟った有馬は、道島を道連れにするつもりでした。
近くにいた尊攘派の橋口吉之丞は手にした刀を有馬に突き刺します。
有馬の体を突き抜けた刀は、道島の体も貫き壁に刺さりました。
有馬は道島を道連れにしてこと切れました。
ここで、血の海となった事態を収束させるため、鎮撫隊のリーダー『奈良原喜八郎』は刀を捨て、上半身裸となり、尊攘派の説得に乗り出します。
『これは上意で仕方なくやったこと。同胞であるお前たちに敵意は無い!!こんなことは今すぐやめて、久光公の前に出てきてくれ!!』
奈良原の決死の説得により事態は収拾。
友人同士だった薩摩藩士たちによる寺田屋事件は、多くの犠牲を払い幕を降ろしました。
常に命がけだった幕末志士たち
多くの犠牲者を出した寺田屋事件
切腹なども含め、尊攘派は9名もの志士が犠牲となりました。
これにより、薩摩藩の尊王攘夷は縮小していくこととなります。
また、朝廷からの依頼を達成した久光は、その存在感を示しました。
思惑通り、朝廷からも一目置かれる存在となります。
尊王攘夷を唱え、寺田屋に散った有馬新七。
その最後は壮絶なものでした。
僕は、有馬のような幕末に生きた人物に触れるたび、いつも想うことがあります。
この時代の人たちは自身の意志に忠実で、その意志の為に命を懸けています。
自身の意志を実行していく過程で、世を去ることになった人物は数えきれません。
立場や身分、思想は違えど、井伊直弼や吉田松陰なども自分の意志を実行していった結果、非業の最後を遂げました。
尊王攘夷の良し悪しは問いません。
ですが、尊王攘夷こそが有馬新七が信じた自分の意志でした。
この時代の人たちは覚悟が違います。
現代人では想像もできないくらいの強い意志を持ち、その意志に覚悟を持っていました・・・
命を懸けていました。
この後、明治維新は達成され、日本は近代化の道を歩み始めます。
現代に直結する明治維新後の近代史は、僕たちの生活に、国際問題に大きく影響しています。
現代社会とは、幕末に生きた人物たちの覚悟の上に成り立っている。
幕末の歴史に触れる度、僕はそんな事を考えています。
ちなみに、寺田屋事件には西郷隆盛の弟『従道』も参加していましたが、若年ということで許されています。
↓この後、久光ご一行が引き起こす『生麦事件』の記事はコチラです↓
では、今回はこの辺で!
ありがとうございました。