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拓麻呂です。
「日米修好通商条約」
学生時代の歴史の授業で習ったのを、何となく覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
名称が長くて覚えられない、という意味で覚えていたりすることも多い出来事ですね。
そういった意味では広く知られている歴史的な出来事なのですが、その内容がどんなものだったかは覚えていないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
日米修好通商条約とは如何なる条約だったのか?
なぜ日本はこの条約を結ばなければならなかったのか?
日本は本当に一方的に脅されて条約を結ばされたのか?
日米修好通商条約をわかりやすく解説していきます。
日米修好通商条約とは
日米修好通商条約の概要
まずは日米修好通商条約とは何なのかについて簡単にお伝えしていきます。
この条約を噛み砕いて言うならば『鎖国を辞めてアメリカと商売をやっていきましょう』ということです。
江戸時代の日本は、一部の外国、地域との交易はあったものの、基本的には門戸を閉ざした鎖国政策を行っていました。
その鎖国を辞めて、我々と貿易しませんか?というアメリカからの要求に応え締結したものが日米修好通商条約です。
このように、概要だけを見るととても友好的な条約に見えるのですが、実際はそう簡単なものではありません。
この条約締結をめぐり、日本は幕末動乱の時代に突入していくのです。
以下より条約締結までの流れを見ていくことにしましょう。
日米通商修好条約締結までの背景
①黒船来航と鎖国の終焉
1853年(嘉衛6年)6月。
アメリカのマシュー・ペリー提督が率いる艦隊が、相模国(現在の神奈川県)の浦賀沖に出現しました。
有名な「黒船来航」です。 これが全ての始まりでした。
ペリーの艦隊は、巨大な黒船4隻を浦賀沖に停泊させ空砲を発射。
凄まじい轟音で日本を威嚇し、その軍事力を誇示してきました。
ペリーの目的は日本の開国、つまり鎖国をやめさせること。
当時のアメリカ大統領(フィルモア大統領)の国書を携え、日本に圧力をかけてきたのです。
当時のアメリカは、太平洋沖で捕鯨を行っていたため、捕鯨船の燃料、船員の食料などを補給する港を必要としていました。
また、ヨーロッパ諸国の植民地政策が東アジアにまで及んでいたため、アメリカもその流れに乗らんとしていました。
このような背景のもと、アメリカは日本へ開国を要求してきたのです。
最先端の軍事力を目の当たりにし、軍事衝突を避けようとした日本は、アメリカの国書を受け取り、翌年に回答することを約束しました。
それから約半年後の1854年(嘉衛7年)1月、再びペリーがやってきました。
前年の国書に対する回答をハッキリさせるためです。
江戸幕府とペリーは約1ヶ月にも及ぶ協議のすえ「日米和親条約」を締結。
この条約により、伊豆半島の下田と、北海道南部の箱館(現在の函館)が開港されました。
他にも、下田にアメリカ人の居留地を開設、アメリカ船への燃料や食料の提供などが、条約の中に盛り込まれていました。
こうして、江戸幕府三代将軍 徳川家光より200年以上続いた鎖国政策は終わりを迎えたのです。
②攘夷と通商条約締結
このようにして日米和親条約が締結されました。
しかし、この条約締結が、またひとつの火種となってしまいます。
長らく鎖国下にあった日本には、外国人との交流を良しとしない者もおり「武力によって外国人を追い払う」という考えが広まっていました。
この思想がいわゆる「攘夷(じょうい)」と呼ばれるものです。
日米和親条約は攘夷派に人たちの反発を招き、幕府はアメリカとの板挟み状態。
さらには当時の天皇であった孝明天皇が強硬な攘夷派であったため、幕府はさらなる非難を浴びることになります。
このような中、日米和親条約を受けて初代駐日総領事に就任したタウンゼント・ハリスが来日。
ハリスは日本に対して通商を要求してきました。
つまり、アメリカと貿易をしなさい、ということです。
日米和親条約は、日本とアメリカの友好だけが目的のようなものでしたが、そこからさらに1歩踏み込み、商業取引を行いましょうという要求が突き付けられたわけです。
当然、攘夷派は黙っていません。
困った幕府は攘夷派を黙らせるため、天皇の勅許を得て世論を納得させたうえで条約締結を推し進めようとします。
しかし、前述の通り孝明天皇は強硬な攘夷派であり、この目論見はあえなく失敗しました。
幕府が右往左往する中、ハリスが大人しく待っているはずもなく、ヨーロッパ諸国による日本侵攻を示唆し、アメリカと通商条約を結ぶべきだと脅しをかけてきます。
このような情勢の中、幕府内では13代将軍 徳川家定の後継者を巡る政争が起きていました。
次の将軍を誰にするのか?この問題の最中で大老に就任した人物が井伊直弼です。
直弼は自身が推す徳川慶福(後の徳川家茂)を強引に将軍に就任させ、さらに強権を発動します。
そして1858年(安政5年)孝明天皇の勅許がないまま、独断でアメリカとの通商条約を締結しました。
これが「日米修好通商条約」です。
③日米修好通商条約の中身
このように、世論を無視して結ばれた日米修好通商条約。
その具体的な中身は以下の通りです。
- 神奈川、長崎、箱館(現函館)、新潟、兵庫の開港
- 自由貿易を行う
- 日本は関税自主権を持たない
- 在日アメリカ人の領事裁判権を認める、など
この中で特に着目したいのが3と4です。
3を噛み砕いてお伝えすると、アメリカからの輸入品に対してどれだけの税金をかけるか日本側に決める権利がない、ということです。
4に関しては、アメリカ人が日本で犯罪を起こしても、日本の法律で裁くことができない、つまり治外法権ということです。
この2点を見る限り、日本にとってはかなり不利な条約であったことが分かります。
これが、日米修好通商条約が不平等条約であると言われる所以です。
なお、この条約はアメリカだけでなく、間もなくロシア、イギリス、オランダ、フランスとも締結しています。
これを「安政五か国条約」と言います。
このような条約を強行的に締結し、時期将軍も無理やり決めてしまった井伊直弼は、間もなく安政の大獄と呼ばれる攘夷派の大量粛清をも決行。
幕府と攘夷派の軋轢は修復しがたいものとなっていき、桜田門外の変で直弼は暗殺され、そして日本は明治維新へと突き進んでいくことになるのです。
不平等条約を結んだ本当の理由
以上が日米修好通商条約締結までの大まかな流れになります。
ペリーの黒船来航で、日本は西洋との軍事力の差を目の当たりにしてしまい、アメリカに委縮してやむなく不平等な日米修好通商条約を締結させられた、というのが一般的なイメージかと思います。
しかしながら、必ずしもそのイメージが妥当ではありません。
確かに日本が脅されて結んだ側面もあるのですが、それだけではないのです。
この当時は、イギリスを始めとしたヨーロッパ諸国が産業革命で手に入れた強大な軍事力を背景とし、世界に植民地支配を広げた時代です。
そして、日本もその標的になっています。
例えばこの当時、特に力を持っていたのがイギリスとロシアです。
現代でもそうですが、北方からのロシアの脅威と言うのは当時も同じでした。
後の日露戦争では薄氷を踏みながらも大勝利をもぎ取りましたが、この段階の日本はまだ近代化をしていので、ロシアに本気を出されたらひとたまりもありません。
そしてもう一方の大国イギリスはロシアと対立関係にあります。
イギリスと仲良くしようとすればロシアが黙っていません。
また、当時のイギリスは近隣国に恐れられたパーマストンという名政治家が国政を担っており、こちらに敵対されても日本はひとたまりもありません。
一方でアメリカはどうかというと、強い国ではあったもののまだまだ新興国であり、イギリスやロシアに比べれば日本にとっても多少はやりやすい相手でした。
つまり、アメリカなら交渉の余地がある、外交で押し返せる可能性があるという目論見があったうえでの条約締結だったのです。
日米修好通商条約とは、アメリカから一方的に脅されて、恐れおののいた日本が無理やり結ばされた条約ではなく、日本が世界と渡り合い生き残るためにアメリカを選んだ、という側面もあったのです。
井伊直弼の本音
日米修好通商条約というと、やはり井伊直弼は避けては通れません。
なので、最後に少しだけ直弼に触れたいと思います。
天皇の意向や世論を無視した日米修好通商条約の締結。
井伊直弼の強硬な政治姿勢は、時に悪政として取り上げられることもあります。
また、井伊直弼という人物自体に良いイメージが持てないと言う場合も多いかもしれません。
しかし一方で、本来直弼は攘夷論者であったという説もあります。
実際、「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」、「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」といったような直弼の意見を述べた書簡が残されています。
今となっては確かめる術もありませんが、直弼の強硬姿勢は幕府の大老として日本を守るための覚悟の表れだったのではないでしょうか。
本音は攘夷を望んでいたとしても、日本を守るためには開国するほか道はありません。
しかし、すでに孝明天皇の周りには多くの攘夷論者が入り込んでおり、勅許をもらえるよう懐柔していては間に合いません。
ゆえに、本音とは裏腹に日米修好通商条約を独断で締結せざるをえないというのが当時の社会情勢だったのです。
結果、開国の道を選んだ日本は、欧米列強の植民地になることなく近代化を成し遂げることができました。
これは歴史が示す通りであり、直弼の英断があったからこそなのです。
まとめ
日米修好通商条約を要約すると以下のようになります。
- 日米修好通商条約とは日本とアメリカの間で結ばれた貿易を目的とした条約
- 日米和親条約、日米修好通商条約を持って日本の鎖国は終わり開国した
- 黒船来航~日米修好通商条約を契機として、日本は幕末の動乱期に突入していった
- 日米修好通商条約は日本に不利な不平等条約だった
- 日米修好通商条約はアメリカに一方的に脅されて結んだ条約ではなく、日本にも目論見があった
- 結果的に開国したことで日本は近代化することができ、欧米列強の植民地にならずに済んだ
では今回はこの辺で!
ありがとうございました。