平安時代の才女『清少納言』と『紫式部』。
よくライバル扱いされる清少納言と紫式部が仕えた中宮。
『藤原定子(ふじわらのていし)』
『藤原彰子(ふじわらのしょうし)』
清少納言、紫式部、定子、彰子。
今回は、この4人のちょっと紛らわしい関係性を、わかりやすく解説してみたいと思います。
定子と彰子の関係
では、まず清少納言と紫式部が仕えた『定子(ていし)』と『彰子(しょうし)』の関係を見ていきましょう。簡単な家系図を作成しましたのでご覧ください。
このように、定子と彰子は『いとこ』の関係にあたります。
兄(長男)『藤原道隆』の娘が定子。
弟(五男)『藤原道長』の娘が彰子。
そして、定子と彰子が嫁いだ天皇が、共に『一条天皇』です。
つまり、一条天皇は定子と彰子という二人の奥さんを持っていたことになります。(定子と彰子を『中宮(天皇の妻のこと)』と言いますが、彰子の入内に伴い、定子は皇后となります)
ではなぜ、定子と彰子が共に一条天皇へ嫁ぐことになったのか?それは、藤原道長の野望が深く関係しています。その詳細はコチラの記事をご覧ください。
そして、
定子様の女房として仕えていたのが『清少納言』
ちなみに、清少納言が仕えた定子の一族を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と言います。
そして、彰子様の女房として仕えていたのが『紫式部』
ちなみに、清少納言と紫式部は宮廷出仕していた時期が微妙に異なるので、二人は面識が無かったと言われています。ですが、先輩女房である清少納言に対し、紫式部が一方的なライバル心を持っていたことが『紫式部日記』に記されています。
なお、清少納言と紫式部の関係性はコチラの記事でも詳しく解説しています。
ここまでをまとめると・・・
清少納言と定子の関係
では、清少納言と定子の関係はどのようなものだったのでしょうか?
清少納言の作品である『枕草子』には、定子がたくさん登場します。
枕草子は随筆なので日記的な側面も強く、清少納言の日常も多く書かれている為、清少納言と定子のやりとり、清少納言が見た定子の佇まいが随所に散りばめられています。
そんな枕草子を読んでいる限り、清少納言は定子のことを心から尊敬しており、常に憧れの眼差しで見つめていたことが読み取れます。そして定子自身も、頭が切れ起点の利く清少納言をとても気に入っていたようです。
そんな二人の関係性を物語るエピソードが、枕草子にたくさん記されています。その中でも、最も有名なのが『香炉峰の雪』と言われるエピソードです。
打てば響く清少納言の起点に、定子が大満足したお話です。『香炉峰の雪』は清少納言の自慢話と捉えられることも多いですが、実際はそうではなく、定子への尊敬の念が込められたエピソードです。
そんな『香炉峰の雪』からも、二人の関係は主従を超えたとても良好なものであったことが分かります。
紫式部と彰子の関係
続いて、紫式部と彰子の関係を見ていきましょう。
紫式部の場合、嫌々宮廷出仕を始めているので、最初はなかなか周囲に馴染めなかったようです。彰子の目にも『ちょっと近寄りがたい人』と映っていたようで、紫式部の日記にも、そんなようなことが書かれています。
紫式部が宮廷出仕したばかりの頃のエピソードはコチラで詳しく解説しています。
これも紫式部日記に書いてあるのですが、若かりし頃の彰子は大人しい性格だったようで、当初の紫式部と彰子の関係は、あまり良いものではなかったようです。
とは言え、紫式部は時の権力者『藤原道長』からの直々の要請で彰子に仕えた経緯がありました。つまり、源氏物語のような物語を書く才女であり、教養も持ち合わせていた紫式部は、彰子の教育係として、宮廷に引っ張り出されたのです。
なので、彰子にこっそりとマンツーマンで漢詩の講義などをしており、次第に彰子も紫式部に心を開いていったようです。
結果的に、紫式部は彰子にとって一番親密な女房になったことが日記にも記されています。
最初はぎこちなかった紫式部と彰子ですが、最終的にはお互いを信頼し合う関係になったのでした。
4人の関係まとめ
以上、清少納言と紫式部と定子と彰子の関係性でした。少し、ややこしいかもしれないので箇条書きにしてまとめると・・
・『紫式部』と『彰子』・・・最初は微妙だったけど、結果的に良好な主従関係
・『清少納言』と『紫式部』・・・面識は無いけど、紫式部はライバル心を持っていた
・『定子』と『彰子』・・・いとこであり、ともに一条天皇の中宮
・『清少納言』と『彰子』・・・直接的な関係性は無い
・『紫式部』と『定子』・・・直接的な関係性は無い
という事になるのでした。
↓この他にも、清少納言と紫式部を色々な角度から比較しています↓
最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考にした主な書籍】